『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 19

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4-2-3. 「アルファベット」 <統一性>の解体

 リベスキンドが一風替わったキャリアの持ち主であり、建築に携わる前には音楽をかなり本格的に学んでいたという事実はよく知られている。そしてこのような背景から、彼の建築は音楽、それも現代音楽との類似性を指摘されることが多い。キャリアからくる連想というだけでなく、彼自身も建築と音楽とをアナロジカルな芸術としてしばしば語っているし、またドローイングや模型の中に楽譜を貼り付けたり、自身の建築の解説にシェーンベルクのオペラを引用したりしているなどの事実からいって、彼の建築の構想の中に音楽から得たインスピレーションを読み取ることはある程度妥当な解釈であるといってよいだろう。

リベスキンドは今や彼の代表作となった『ユダヤ博物館』(1989)において「アルファベット」と呼ばれるドローイングを提示している(図39)。

これは「地下Underground」「隙間Interval」「場所Site」「空虚Void」「線Linear」「窓Window」「連関Combination」という7つに分類された建築の要素から成っている。要素ごとにそれぞれ10個ずつ鋭角的な形態が描かれ、キーフォームとして提示されている。吉田寛は、マルクス・バンドゥールの『トータル・セリエリズムの美学』の論を受けて、この「アルファベット」を「トータル・セリエリズム」のセリーと比較しているが、これは興味深い分析である。彼いわく音楽でいう「トータル・セリエリズム」では、「音高(ピッチ)のみならず、リズムや楽器の音色、あるいは強弱といった音のあらゆるアスペクトがセリー化されて緻密にコントロールされる」(116*)が、それと同様に、リベスキンドは各要素ごとに形態をセリー化した「アルファベット」を作り、それらを組み合わせることによってユダヤ美術館を作り上げているというのである。

 このアナロジーが示唆することは、セリー音楽において各セリーが等価でありまた各音素が等価なものとしてあって、全体と部分の間にヒエラルキーを持たないことが企図されていたように、リベスキンドの建築が互いに等価な部分の集積、断片の集積としてあって、主従のヒエラルキーをもった秩序的な統一体をなしてはいないということなのである。そしてリベスキンドが断片を組み合わせるという設計手法を用いたのみならず、「アルファベット」としてそれをドローイングの中にわざわざ提示したという事実は、彼が組み上がった結果としての建物にではなく、このような手続きそれ自体に価値を見出しているという事を示している。「アルファベット」はこのような断片的手法の記録(ドキュメント)としてあり、秩序付けられた統一性を要請する既成の建築概念に対するアンチテーゼとして機能しているのである。このドローイングは、建ち上がった『ユダヤ博物館』を再度諸々の断片の状態へとほどき、その<統一性>を解体してしまう。


4-3. まとめ ――<ポストモダン・ドローイング>の機能

 以上見てきたように、チュミやリベスキンドのドローイングはそれぞれ、既成の建築がよって立つ基盤を打ち崩すことを企図したものであり、それに対しての批判としての機能を果たすものであった。チュミの場合には、ドローイングの中に「出来事」という異質なものが入り込み、その「暴力」によって建築の<自律性>を批判し、またシークエンスを導入された「work-in-progress」として、建築を動的なものとしその<完結性>を解体していく。一方「不完全さ」をもった「謎」であるリベスキンドのドローイングは、その歪みによって建築の<全体性>を破壊すると共に「アルファベット」などによって示される断片的手法により、その<統一性>を破棄する。前者はコラージュという付加的な手法を用い、後者は断片化する分析的な手法を用いているという違いはあるが、両者のドローイングは、それを見るものの建築の表象自体を解体、変容させ、新たな<建築>をそこで生み出していくひとつの生成をなしているという点で同じものを持っている。

 『マンハッタン・トランスクリプツ』や『マイクロメガス』において成されるこのような建築の解体は、明らかに建物を建てることによってはなされ得ないものである。建物を建てるとき、既にして建築が前提しまた不可避にその中に取り込まれてしまう<建築>という体系に対し、そのちょうど境界において建築の「限界」として存在するドローイングなればこそ、それが可能なのである。そしてこのようなドローイングは建物の像であれ<アンビルドな属性>であれ、何らか建築家の意図したものをそのままに伝達する媒体としてのドローイングではなく、<建築>を破壊し再構築する運動を引き起こす場として機能するものである。あるいは別の言い方をすれば、これらのドローイングにおいてはそこに描かれる像を受け取ること自体に重要性があるのではなく、そのような像を通じて建築が脱構築され、新たな建築の可能性が開かれていくというその運動に意義があるのである。この意味で両者のドローイングは前章までに扱ったどのドローイングとも異なった存在であり<ポストモダン・ドローイング>と呼んで区別すべき新しい機能を担ったものである。

 そしてまたこの<ポストモダン・ドローイング>は、ひとつの出来事として、またそれ自体において建物の決してなしえない<建築>をなすという意味において、唯一無二の代替出来ない価値を持ちうるものなのである。こうしてポストモダンの時代において、ドローイングの価値はその極大に達することになる。

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116* 吉田寛「音楽家ダニエル・リベスキンド? 新たな読解可能性のために」 『In Communication』12(1), 2003 ,p.127

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