kazy

身体から見た〇〇。

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最近の記事

出逢いはギフトなんだ。

人生で、なぜその人に会えたのだろう。 望ましい出逢い、望んでない出逢い けれど、出逢ったんだ。 わたしたちは。 その出逢いが、人生にどんな影響を及ぼすかなんて分からない。 けれど、長さや濃さが、及ぼす影響の大小とは必ずしもイコールではない。 そして相手をみて、接して、離れて、分かるのだ。 あぁ、私はこの出逢いを望んでいたんだ、と。 そこまで来れたら、きっとどんな出逢いも、感謝というふりがなをふれるのだろう。

    • 言葉を掴まない。

      アタマで浮かんだ言葉を掴まない。 ただ、流れていく。 まだ身体のモヤモヤ感は消えていない。 けれど、言葉で定義づけしない。 これがどんな感覚かなんて、頭が先にわかるはずがない。 やりたいだけやらせる。 なる早で解決したい、そんな欲も沸かないこともないけど、 それの繰り返しは同じところを行ったり来たりするだけ。 もう、やめた。 この痛みやモヤモヤやいい感じや寛ぐ感じ すべての感覚を身体に任せる。 身体が何か言うまで。

      • カラダからみた、こころの痛み

        納得いかないモヤモヤ 不安なザワザワ 傷ついたチクチク 胸やおなかに感じる、その痛みや辛さ カラダから見たら、サイン。 けれど、もしかしたら。 納得いかないモヤモヤ、ではないかもしれない。 不安なザワザワ、ではなく、 それが(あなたが)不快!のザワザワかもしれない。 傷ついたチクチクは、憎しみのチクチクかもしれない。 身体の反応をアタマ(思考)で定義付けても意味はない可能性もある

        • ヴァイブレーション

          ある、ない。 必ずわかる。 分からない? それは『ある』を知らないからかもしれない。 自分のココロ・カラダのヴァイブレーション。 鳴り出したらそれに気付かないハズは、 恐らく、ない!と自信を持つことも大事。 その自信を感じる部分を開いておくことをし続ける。 ヴァイブレーションを感じる感じない。 自分にとっての物事の良し悪し。 世界で起こる様々な事柄。 これらは自らの意識できる範囲の外で起こるから。 私たちは、自分を開いておく事しか、しなくてよい。 と

        出逢いはギフトなんだ。

          あの日、泣いたのは私だったのかもしれない。

          3ヶ月くらい、ずっとおかしな距離感とコミュニケーションが続いていた。 機嫌が悪いことがベースで、とりつくしまもなく。たまに機嫌が良い風に見えて、しかしそれは長く続かない。 限界だった。 同じ部屋に暮らし、共にすごす時間は少なくても、やはり帰る部屋はここ。彼といる時間は寝るまでの4時間あまりと、朝家を出る前の2時間程度。たったのこの6時間しか共有していない日々なのに、その6時間さえ、気づかいを手放した彼に、私は限界だった。 あの日。意を決して、私は彼に切り出した。今、ど

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          あの日、泣いたのは私だったのかもしれない。

          条件で自分を納得させない。

          自分を知ることが、色んなツールで出来るこの時代。 何かを選ぶ時とか 自分にとって都合の良くないことが起きた時とか 日常からプライベート、仕事のシーンまで様々ある中で、自分を納得させたいとき もちろん色んなツールで、納得材料は見つけられる 集めれば集めるほどに、納得もしやすくなる 色んな角度から、それは可能だ。 けれど 最後の最後、条件で自分を納得させるということをしない。最後は、キチンとココロに選んでもらう。 食べたいもの 着たい洋服 履きたい靴 持ち

          条件で自分を納得させない。

          ヒカリに気づく

          いつも光はそこにある。 今、ここにあるヒカリに気づき続けていく 今、ここにあるヒカリに自らを開き続ける 気づき続けていれば『ある』ことが分かる

          ヒカリに気づく

          心の支えは然るべき時に。

          傷ついたとき ショックだったとき 失恋したとき 誰かを失ったとき その心の支えは、最初は自分が担うことが大事だ。 ショック症状には、症状の大小があって、それは、回復にたぶんに影響を与える。 取り分け、そばにいた誰かを失った悲しみや寂しさは、ものすごく心にくるし、それが人間だという証でもあると感じる。 愛するパートナーを病気などの死によって亡くされた方の悲しみや寂しさは途方もないだろう けれど、またそれもみんながみんな、同じ環境ではないことも心の回復の長短に関わ

          心の支えは然るべき時に。

          愛とはなんだ。

          初めてこの『愛』を考えているかもしれない。 『好き』と『愛おしい』そして『愛』 難しい。愛。 理解出来ていない。 今、経験していることの1つとして 愛している=永遠、ではない。ということ。 当たり前か。 40さいにもなってこれに取り組んでいるのは 遅すぎるのか。恥ずかしさもある。 スピリチュアル な世界や精神的な世界にいると、この愛はよく出てくるワードだ。 あと、光。 光や愛は、私にとって全く実感もなく、難しいとも感じていないくらいピンと来ていなかった。

          愛とはなんだ。

          停止する、という贅沢。

          今の状況、そのものが贅沢な時間だ、と感じる。 もちろん、そんなこと言っていられない!というヒトがいることも理解しているし、そうゆう観点で見たらワタシもその一人なはずだ。 けれど。 強制的に活動を止められることなど、 自分の健康を害したり、身内に何かがあったり、よっぽどのことでないとない環境の中で、 『今は、止まってください。』とお願いされている。 今、これを書いていて、よっぽどの何かがないと止まれない・止まらないと決めている方が、よっぽど怖いわ、と思った。 15

          停止する、という贅沢。

          もう、誰かになろうとしない。

          ずっと前から知っていた言葉だ。 けれど、そんなこと、最初からしようと思っていない、と思っていた。 しかし、パートナーや仕事仲間との関係性の中で、やっと気づくことが出来た。これ、やっている。しかも、かなり前からずっと。 私にとって、『それ』は自然な行為だった。 関わる相手が欲するもの、期待すること、して欲しいことが少なからず読み取れると、それを表現しようととしていた。相手の希望や期待に応えられる私に。 この思考のスタートは、『この人の期待に応えたい』という純粋な気持ち

          もう、誰かになろうとしない。

          不平・不満を、言う。

          不平・不満を言ってはいけない。 そう躾けられた。 不平不満を言うことのデメリットの部分だけ切り取って。ものの見方を教えているつもりだったのだろうが、性格によっては、それが全てと捉えたりする。 最近、不平不満を言うことは、自らの好みに気づくことでもあるとわかってきた。 私はこれは嫌い 私はこうはしない 私は好まない 私はやりたくない 私が不平不満と捉えている言い方は、この様な言葉になるが、これらは全てiメッセージ。自分が主語として発せられた言葉だ。 すべて●●

          不平・不満を、言う。

          人生という時間旅行。

          私の強みを引き出す、私のサイクルがある。 私のこのみを感じる時間が必要だ。 次の奥の手を持つ時間が必要だ。 それをもって私は世界に貢献していきたいのに それを持つ時間を、私は私に与えていなかった。 人が有能さを発揮するのに、遠慮はいらない。 それは、『遠慮なくやる』がどこに掛かっているかを、人それぞれ知る必要がある。 遠慮して、その作業・発言・投稿などをしない こともあれば、 遠慮して、その環境にい続けることをしてしまう人もいるだろう。 すでにそこでの役目

          人生という時間旅行。

          満月の夜の振り返り作業

          それは、ふと。 私の心に思い浮かんだ。 今日の満月の作用って、浄化とか決別とかって意味があるらしいよ⁇という話を聞いたからか。 幼い頃、そして学生時代の頃の出来事について。 このところ気になっていた。身体の反応や言語選択について、どうしてもおかしいと感じる時がある。 大人になってからトレーニングされた自分は、話し方や言葉の選択も、もちろん仕事として機能しているくらいだから多少はまとも?と言えるだろうが、その自分とは雲泥の差の自分も、自分の中にいるのである。 コーチ

          満月の夜の振り返り作業

          カラダから見た罪悪感

          罪悪感って、 とっても不思議なもの?こと?だなぁと感じる。 今、言語化しながら思ったけど、罪悪な感じってどんなだ!笑 だいたい、「罪」とか「悪」って、●●について、とかコノ出来事でこうゆうことがあって、とか具体的な事柄があってそうゆう表現を使うけど、罪悪感って言葉自体がとても抽象的だ。 確実に、、、気のせいという可能性が高い。 でもなぜか。かなり根強く自らの中に罪悪感という言葉に言語化された感覚が自分の中にある。そんな実態のない感情は、自らと切り離せば良いのだが。

          カラダから見た罪悪感

          臓器よこんにちは。

          昼間、これからヨガのティーチャートレーニングを受ける予定の人と、身体のことについて話した。解剖学もあるよね、というところのハナシで、身体を使っている人であれば、解剖学は答えあわせの要素がある、という話をした。 筋肉の種類やつき方を知って身体を動かすことと知らないで動かすことは、天と地ほどの差があるだろうと感じている。無自覚に動いている身体だけど、本当はすごい機能を使いながら動いていて、もちろんコントロールのトレーニングは必要ではあるけど、自分とは思えないような可能性が見えて

          臓器よこんにちは。