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「名選手、名監督にあらず」は本当か

今日はこの言葉をもとに、「教える」ということについて紐解いていきたいと思います。
個人的に「名選手、名監督にあらず」といのは、
やや嫉妬心に近いようなとても捻くれた目線の言葉であると感じています。ただ、この言葉自体を完全に否定するわけではありません。

個人的な見解としては、
「名選手、(ややもすると)名監督にあらず」
つまり、
「油断をするとそうなってしまう」という傾向としてありがちなものではあるように思います。

では、なぜその傾向になりがちかなのかということを考えてみると、
名選手は、
「凄いことがナチュラルに出来てしまう」
という感覚を持っていることによるものではないかと思われました。

得意なことって、
「よくわからないけどなんとなく出来てしまう」
ということって結構あるような気がします。

つまり、「感覚で出来てしまうもの」を高いレベルで持っているというのが名選手ではないかと思います。

「他の人ができないようなことをさらりとやってのけてしまう」というのはまさに鍛錬の賜物と言えます。反復を重ね、たどり着いていった境地であると言えると思います。

ただし、そこにそこに(ややもすると)の話があり、ハマってしまう落とし穴があります。
ナチュラルに高次元のことが出来てしまうことは、
「出来てしまう感覚が言語化されていない状態になる」
という危険性を孕んでいるように思います。

野球選手で言うと、野村克也さんと長嶋茂雄さんの違いを挙げると分かりやすいかと思います。

ここではどっちがいい、どっちが悪いという二元論ではなく、
「タイプとして違い」としての例になります。
言うまでもなく、二人とも野球史に輝かしい名を残す名選手です。

長嶋茂雄さんは、
「ナチュラルに高次元のことが出来てしまうタイプ」のように思います。
ですので、
「あの打撃は誰にも真似出来ない」むしろ「真似しない方がいい」という専門家の声もよく聞かれました。
その真髄に対しても、
「スーッと来た球をガーンと打つ」
というある意味半端ないなと思わせる言葉を残していることでも知られています。
(おそらく反射神経が抜群だったのではないかと思われます)

野村克也さんはその逆で、「ナチュラルに出来た」というよりも、
相手のクセや傾向を自分なりに分析をして「配給を読む」など、
「ゴールに至るまでの過程を逆算して必要な対応をとっていく」
ということを徹底しました。

この経験があることに、
野村克也さんが指導者という立場においても大きな成功を収めたという所以があるのではないでしょうか。

野村克也さんは
「言語化の天才」
だと思っています。

自分が出来なかったが故に、
「なぜそうなるのか?」
「どうすればできるようになるのか?」
を徹底的に模索し続け、言葉にし、それを試していった
結果、出来るようになっていったという過程を大事にされていたのだと思います。

つまり、
「教える」ことで一番重要なのは、やはり「出来るまでの過程の言語化」なんです。

なぜ出来ないのか? なぜ分からないのか?
高次元でナチュラルにこなせる人は、出来ない人に対してそう思ってしまいがちです。

自分が自然に出来てしまうことがなぜできないのか分からない、
言い換えれば、
「なぜその状態なのかがわからないから、どうやったら出来るようになるのかの過程が見えない」
という状態が起こります。

これは私も塾講師時代に経験があります。
「なんでこんなことも出来ないの?」
と言いたくなるようなことは何度となくありましたが、
これは指導者として禁句だと思っています。

「なぜ出来ないか?」
という状況を把握して、
「相手の立場になった上で適切な過程を考える」

これこそが指導であると考えています。
そしてそれを導くための手段が「出来るまでの過程の言語化」になります。
これを大事にすることが指導であり、

出来るに至るまでの過程を言語化して、試行錯誤して小さな成功体験を積み重ねていけるようになることこそが良い指導

私はそう考えています。

ということで、本日は
「名選手、名監督にあらず」という言葉は一概にそうとも言えないが、
名選手が出来る感覚を感覚だけのままにしてしまうと、そうなってしまう可能性がありますよ
というお話でした。

最後までのお読みいただきありがとうございます。
私のこの記事にみなさんの貴重な人生の時間を1分1秒でも使っていただいたことに心より御礼申し上げます。
ではまた来週〜











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