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「当たり前のことをあたりまえにやるのは当たり前」という言葉を使用禁止にしたい

かぜひぴにとって初めての子どもまつりが生まれてから、当たり前になることが増えた。

息子にとって母親という役割における義務はたくさんある。でもそこにはたくさんの葛藤や愛情という気持ちが積み重なりやっと習慣化してできたものばかりだった。

子育ての流れもペースも掴んできたそんな頃、わたしは旦那のハヤテさんと結婚してから2度目の大喧嘩をした。 

結婚してから2度目の大喧嘩

まつりが朝の2回目の授乳が済んだにもかかわらず朝からぐずっていたことが発端だった。

朝の授乳は大体5:30と7:30の2回。
しかしわたしが寝たのは明朝の3:00か4:00近かった。

その前夜、わたしたちが暮らし運営する育くむシェアハウスとっとには久しぶりのメンツが揃い、夜な夜な語りながら飲むという楽しい時間についわたしも夜更かしをしてしまったからだ。

当然、夜更かししたわたしが悪い。
眠いながらも2回目の授乳が終わり3度目の睡眠に入ってわずか1ー2時間後。

まつりは起きだし、泣き喚いていた。
しかし泣き方からして寝ぐずり(夢や寝返りの反動で起きてしまったが眠くてぐずって泣くこと)だったので、そのまましばらく泣かせて寝かしつけようとした。
大体少し泣いて疲れるとまた眠りだすのがまつりの特性だからだ。

夜更かしが祟って眠かったこともある。
しかしそれ以上にすでに朝の自分の役目を終えた開放感に早く浸りたかったのだ。

しかし横で寝ていたハヤテさんはその鳴き声に耐えきれなかったのか、泣きじゃくるまつりを引き寄せ抱き早く寝かせつけようとした。

結果、まつりは大泣きし泣き声は一段と大きくなった。

さすがのわたしも耐えきれず、まつりを開放するようにハヤテさんに求めた。

すぐにまつりを開放してくれたが、と同時に
「眠くて授乳をするのが嫌になるんだったら、夜更かしするのやめなよ。」と言った。

確かに夜更かしはしていたし、とても眠くて起きてまつりをあやす力はなかった。
しかしわたしは自分の最低限の役割である授乳をすでに眠いながらも終えていたのでその言葉にカチンときてしまった。

「もうすでにわたしはやることやってるけど!そういうあなたは朝起きて何をしてたの?!
中途半端に朝起きてゲームして眠くなって寝てただけじゃない!なんもしてないくせにそういうこと言わないでくれない!!」

わたしの悪い癖だった。売られた喧嘩を買ってしまい、言ってはいけないことを言ってしまった。

ハヤテさんの尊厳のために触れておくが、
普段ハヤテさんはほぼ毎朝、2回目の授乳を終え眠気に耐えられないわたしのために起きてまつりに朝ご飯の離乳食をあげて、お散歩に行き、最後にまつりを寝かしつけて帰ってきてくれる、という立派なパパをやってのけてくれていた。 

当然のごとく、ハヤテさんも怒りこう言った。

「母親なんだから授乳するのは当たり前だろ!」



ブチン。


わたしの中でそう音がした。
怒りのあまりわたしはこれ以外のかけられた言葉を思い出すことはできない。

ただ、悲しさと怒りのあまりわたしは、
「こんな人とは思わなかった」そう泣きながら吐き捨てその場を去ったこと、その日は2人とも必要最低限の会話のみしかしないまま深夜を迎えた。

(恋人と違うのは、夫婦であり子どもがいるとそこに生活をしなきゃいけないってことですね><
どうしても会話をする必要が生まれます)

今この文章を追って読んでいる人からしたら、ハヤテさんが言った言葉には何もおかしなことを言っていないように感じると思う。

そう、母親として、授乳することはしごく当たり前の事なのだ。

それは十分にわかっているし、そう思うからこそ眠い目をこすりながらまだ暗い朝の中1人起きて授乳をしてきた。この11ヶ月間ずっと。

しかし、それは母親としてまつりにとって当たり前のこと=役割における義務であって、その役割を放棄していない限りハヤテさんからその役割を押し付けられることではないとわたしは感じた。(この時で言うと、すでに朝の授乳は完了しているため)

しかしその義務もまた、義務として受け入れるまでの葛藤や辛さといういろんな気持ちを経てやっと習慣化したものだった。

まつりは途中でミルクを飲まなくなってしまったので授乳するほかなかったのだ。

だからこそ、

「当たり前のことをあたりまえにしている」事実を当たり前にして欲しくなかった。


家事や育児は規律や理念といった行動指針の基準としてのあたりまえで成り立っていない。

そのほとんどが「喜んでほしい」「元気でいてほしい」「豊かになってほしい」という相手の幸せを願う気持ちとその結果である感謝であったり喜んでもらったり元気でいられているという状態で成立している。

そんなとき、一番身近な旦那や子どもから「あたりまえだから」と言葉で片付けられてしまうと行動の源をゴッソリと失ってしまう。

当たり前を支えている気持ちを当たり前とされてしまうと、励みがなくなってしまうのだ。 

ましてやそのあたりまえを遂行して継続し続けているのであればなおのこと。


丸1日という冷戦の末、その怒った当時の気持ちをハヤテさんに伝えると、当初ハヤテさんは理解ができないと言った。

「当たり前のことを当たり前と言って何がいけないの?」とすら返された。 

冷たさや嫌味もない、ただ自然にそう返された。

そして、
「自分の母親はそういうことに対して文句を言ったりそういう気持ちになるという話をしていたことがないから、あの発言に対して『悪い』という気持ちがわかなかった。」と続けた。

振り返ってみれば、私たちの母親世代は多くが結婚して仕事を辞め家事に専念することが当たり前とされ、

その結果、家族が快適に、気持ちよく、元気にいてほしいと願って毎日している掃除や洗濯や炊事を、やって当たり前とされてきたことも多いと感じる。

現にわたしも、家事を手伝うようになった小学生まではそれが母親の仕事でありそれ自体を当たり前とすら思っていた。

しかし、手伝うようになったことで母親が当たり前にしていることにいかにたくさんの想いやりや気遣いを込めてくれていたのかを知った。

結果、当たり前を当たり前としてきた歴史が私たちの世代にも色濃く影響されているのだなと感じた。

夫婦になってから2度目の大喧嘩の終焉は、
「当たり前のことは当たり前でない」と思っている、という気持ちの共有に終わった。

ハヤテさんが普段してくれている料理や家事そして育児は当たり前でないしとても感謝していると伝えたこと、

わたしやまつりの体の健康を気遣って作ってくれている料理を当たり前としたら、その掛けてくれた想いは報われないじゃない、と伝えた。

それを受けてハヤテさんは
「確かにそうだね。ごめんね。」と返してくれた。わたしが怒った理由と気持ちを理解してくれたのだろう、とわたしは感じている。


わたしがなぜあんなにもブチ切れたのか。

実はハヤテさんにもあの時伝えていない、もう一つ理由がある。


それは「当たり前」という言葉で片付けて欲しくなかったからだ。


「授乳はできないから自分の役割でない」、あの言葉からそう告げられたようにわたしは感じた。

確かに授乳、特に直母乳は母親からしかあげられない。

赤ちゃんへ授乳する妻の姿は、いかにも「母親」という印象をパパへ与えているだろうし、授乳という行為自体を「自分にはできない育児」と強く感じさせているだろうなと思う。

でもそんな母親としての絶対的な姿の心の中は、
・ちょっと授乳を休憩したいな(けどなかなかなかできない)
・授乳がなかったら出来ること
・なかなか体重が大きくならない我が子へ授乳だけで栄養が足りているのかという不安
・でも授乳だからこそ与えられる安心感や抗体(ウィルスや病気の対する免疫)をしっかりあげたい
と言った気持ちでぐるぐるしている。

そんな胸中を抱えながら、それでも自分なりの気持ちの踏ん切りをして授乳を続けている苦労と努力を認めてほしいっていう切なる願いがあったりする。

それをできるのは、誰でもいいわけじゃない。わたし以外のもう1人の親である父親(旦那)にしかできないことだ。

例えば、「ママ少しおっぱい休みたいって」「大変なのに授乳続けてくれてありがとう」と言ってくれるだけですごく気持ち的に救われる。

そこを「母親なんだから授乳は当たり前だろ!」と言われてしまうと、唯一無二の助けを求められる人なのに助けを請うことができなくなってしまう。 

当たり前を当たり前のこととすると、

そこから先の行動がなくなってしまう。

考えなくなってしまう。

責任を放棄してしまう。

飛躍しすぎていると感じるかもしれないけど、でもわたしはそう思っている。

だからこそ、あのとき咄嗟の怒りで放った言葉だとわかっていても、あの言葉に絶望したし悲しくなった。

こう言葉に起こせるようになったのは、この記事を書きそしてこの記事を読んだからだ。

「パパしかできない、母乳育児」
https://note.mu/kazoku_sukiyaki/n/n974dcea9bbee

引用させていただきながら、わたしの当時の気持ちを添えて表現を変えさせていただいた。 


今回の喧嘩の発端。 

「母親なんだから授乳は当たり前だろ!」

一見、そんなにブチ切れるような言葉ではなかったかもしれない。しかしわたしにとっては今後の夫婦関係を大きく揺るがす事件だった。 

2019年もあと少し。かぜひぴの息子まつりもあと少しで1歳になる。この1年を振り返ると、まつりが生まれたことで生活も仕事もガラッと変わった。

一つ一つ目まぐるしいスピードでまつりにできることが増えていく一方で、今までの当たり前が当たり前でなくなることも多く、母親として、妻として、そして自身として気持ちと行動を切り替えなければいけない場面が増えた。

出産前より「子育てはふたりで」と決めたからこそ、一つの頭だけでなくふたり分の頭を使って向き合ってゆかなくてはいけない。

わたしはまだまだ妻として、母として、人として、至らないことがたくさんある。

だからこそ1人の気持ちだけでなく、2人分の気持ちを大事にこれからも育児に、家事に、そして旦那と子どもに向き合ってゆかなければと、今回も喧嘩を経て強く感じた。 

でも大喧嘩はしたけれど、はやてさんの懐の深さとどんな時でも真正面から真剣に向き合ってくれるおかげで、今回も前に進むことができました。

いつも本当にありがとう。


最後に改めて声を大にして伝えたい。

これは旦那にではなく、今この記事を読んでくれているあなたとそのあなたの大切な人へ。

規律や秩序を守るための「当たり前」以外、
「当たり前のことをあたりまえにやるのは当たり前」という言葉はいくらでも暴力になりえる。

そこにどれ程の人の気持ちが含まれているのか今一度、目を向けてみてほしい。 

当たり前のことほど、

きっとたくさんの愛でできている

はずだから。

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風とヒッピーとチビすけ
ユウキ

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