❹藝大生のジャーナリズム志望?

 就職を考えるようになって、僕の場合は就職の仕方が分からない!という状況だったわけだけれど、1979年当時の文系大卒男子の就職活動がどうだったかというと、大学と企業の間で結ばれた就職協定というルールがあり、大学4年生の10月1日に会社訪問解禁、11月1日から選考開始ということになっていた。ところが銀行とか商社とか有力メーカーなどの大企業は10月以前から優秀な学生を囲い込んで秘かに内定を出すという、いわゆる「青田買い」が横行しているということが度々報道されていた。有名大学の学生達には大企業のOBから早ければ3年の終わりごろから接触があり、また学生の方からも積極的にOB訪問を行うという慣行があったらしい。
 しかも73年の第一次オイルショック以降の不況に円高が重なって企業の倒産が続出し、79年の初めには第二次オイルショックという経済情勢のなかで、企業の新卒採用も抑制気味で公務員試験に応募者が殺到していると伝えられていたし、少なくとも前年までは就職活動は非常に厳しいと報道されていた。
 もちろん僕の場合はそういう状況とはまったく無縁。企業に勤めるOBなんて知らないし、OB訪問自体やりようがない。そもそも東京藝大の学生が商社や銀行やメーカーに就職したいと思ってもそれは通らないだろう。ただでさえ就職と無縁な大学なのだから、新聞・テレビ・出版・広告代理店というようなマスコミ企業ぐらいしか考えられなかったのだが、その頃のマスコミ企業は、景気に左右されにくく、出版社などは不景気の時ほど本が売れるとさえいわれていた。社会構造や経済規模が現在とは違っていたから、業種によっては必ずしも景気に連動するわけではなかったのだろう。テレビの隆盛やCMの影響力、相次ぐ雑誌の創刊などもあって、マスコミ人気はもっとも高い時期だったかもしれない。つまりかなりの難関だということだ。
 ただ幸いというか、「青田買い」が横行する状況のなかで、マスコミ企業だけは就職協定を守っていたというのが、就活未熟者の僕からすれば可能性があるような気がした。10月に入って募集要項が公表され、応募書類による書類審査があったりして、11月に筆記試験、それに受かったら面接に進むというのが、マスコミ企業の就職の実際だった。これなら僕にも、少なくとも試験を受けることは出来る。

 マスコミへの就活をしようとしながら、僕自身がマスコミに対してどんな職業意識をもっていたかというと何とも心もとないのだが、もともとうちでとっていた朝日新聞を丹念に読む習慣はあった。だから高校で新聞部に入ったりしたのだろう。70年代は、当時の大学紛争や成田空港反対闘争などの学生運動の影響が大きく、東京の高校などでは学校側のあらゆる規制に反対してバリケードストライキを行うところもあったし、僕が通っていた高校でも僕の入学前にはバリストがあって、新聞部などは日本共産党系の民青(日本民主青年同盟)に関係しているような左翼系の政治意識をもっている先輩たちがちらほらいた。僕の世代はそういう上の世代に対して少し冷めた目でみていたノンポリ世代なのだが、やはり若さゆえの正義感や反権力というような意識は、ふつうの高校生にも少なからずあったように思う。
 そういえば、高校2年の時に文化祭の実行委員長にさせられて(生徒会などの活動は新聞部が中心的な役割を果たしていたから)、全校集会の時に文化祭の出し物の予算配分会議をするので責任者は必ず出席してくださいと呼びかけ、さらに欠席の場合には(こういう会議の出席率がいつも低くて、なかなか先に進めない情況があった)予算を配分しませんよと(強権的に?)言ったものだから、その後僕の顔写真を引き伸ばしてそこに「宮本粉砕!」と書かれて新聞部の部室に貼られたりした。「粉砕!」って懐かしい言葉です。あの写真を取っておけばよかった。

 新聞部にいたせいもあっただろうが、高校3年の進路指導の際に、担任の田村泉先生に東京藝大志望と伝えると、田村先生が「えっ、君は早稲田の政経とかに行って新聞記者になるのが向いているんじゃないのか」と言われた。新聞記者に早稲田出身者が多いということなのだが、その時は、先生は何をおかしなことを言っているのかと、とても心外な気分だったのだが、考えてみれば僕の美術活動は、美術予備校や吉仲太造先生、豊島弘尚先生のもとで絵やデッサンを学ぶという校外活動だったので誰も知らないし、学校では新聞部にいて、文化祭実行委員長をやったりしており、それなりに皆の前で主義主張を述べるようなところもあったから、傍から見れば、ちょっと生意気なジャーナリスト志望と見られていても不思議はなかったのかもしれない。
 振り返ってみれば、僕はずっと美術の世界に憧れてきたが、一方で新聞をよく読む子供だったし、政治意識や社会意識に無関心ではなかったと思う。また記憶をさかのぼるけれど、小学校の2年生の時に、風邪をひいて何日か学校を休み、寝ながら子供向けの「ベーブルース伝記」という本を読み通して、こんなに分厚い本を全部読んだということに自分で感動して、何かそれが妙な自信になって、それからは手当たり次第に本を読む子供になった。  

 1965年(昭和40)に刊行が始まった中央公論社の「日本の歴史全26巻」を我が家でもとっていて、これにすっかりはまって歴史好きになり、生意気に「天皇制って何で必要なのかな」などと口走る子供になっていたから、父などは左翼かぶれになるのではないかとかなり心配していたらしい。まあ小生意気なガキだったのです。
 僕の知り合いに、「父から本を読むような人間になるな!」と言われて育ったという人がいて、そういう“見識”があるのかとびっくりしたけれど、今になって、それも一理あるかなと思うところがあります。きっと人生がまったく違っていたと思います。

 

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