二流編集者の回想記

1955年(昭和30年)東京生まれ。新潮社に30年、独立してから10余年、雑誌、書籍、…

二流編集者の回想記

1955年(昭和30年)東京生まれ。新潮社に30年、独立してから10余年、雑誌、書籍、写真集など、首尾一貫せずあれこれ関わってきた編集者の時代回想と体験談。

最近の記事

⓫瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。その3

 『芸術新潮』に掲載した流政之さんとの対談の後、瀬戸内さんとの仕事のきっかけをもう少し作るべくあれこれ思案していたところ、文庫編集部の杉野さんから、ずいぶん前に『新潮』に載った里見弴氏との対談が単行本未収録になっているとヒントをもらった。  調べてみると、1982年の掲載で12年も前のものだ。対談と言うよりは、当時94歳の里見氏の半生を瀬戸内さんが聞き手になって語ってもらった内容で、それこそ兄の有島武郎と波多野秋子の心中事件の後始末などの話に始まり、僕などからすれば教科書に

    • ❿瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。その2

       作家にとって担当編集者というのは、どれだけ自分のために動いてくれるかに尽きると思う。が、その在り方は、男女関係に似て100組の男女に100通りの関係があるのと同じで、決まった形があるわけではない。  対等の立場で一緒に作品を練り上げる同志的関係もあれば、新人作家の場合だが、編集者が師匠のように指導していく関係もある。かと思えば、女性編集者が男性作家にプライベートも含めて、まるで女中のように尽くしている形を垣間見たこともある。  また大物作家に後から付く場合、傍から見ればおべ

      • ❾瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。順番を変えて、その1

         この11月9日に瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなられた。  横尾忠則さんとの『週刊朝日』での往復書簡を、体調不良ということでしばらく休まれていたけれど、すぐに回復されるものと思い込んでいたし、99歳の今までずっと現役作家として健筆をふるわれていたから、瀬戸内さんが亡くなるなんて考えないようにしていた気がする。百歳を超えて書き続けていくと信じていた。  訃報に接して唖然としながら、あとからあとから思い出されることが溢れてくるので、今回、この回想記の順番をとばして、瀬戸内さんとの

        • ❽ガーン!共同通信社、断念!

          新潮社と共同通信社に応募することにして、さらにテレビ局のTBSにも応募した。ここは応募者全員に社員の紹介を義務付けていたが、要するに、マスコミを希望するような者は何とかツテを探してTBS社員にたどり着くぐらいの才覚が必要ということらしかった。これも知人の知人にTBSの方がいたので、それで応募。  あとは大手出版社2社と新聞社1社の書類選考に通った。また採用人員が多いので広告代理店の電通にも応募した。  出版社は若干名の募集、TBSは20名程度、新聞社の記者部門はもう少し

        ⓫瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。その3

          ❼白浜仁吉郵政大臣と共同通信社

          同じころ、九州の関係会社に出向していた父から電話があり、地元選出の自民党の衆議院議員で郵政大臣を務めていた白浜仁吉さんが就職の件で会ってくれるから、衆議院議員会館の事務所に行ってこい、というのだ。父が政治家と付き合いがあるなどとは聞いたこともなかったが、地方の企業などは地元の政治家との関係も近いのだろう。当時は私立大学の入試や就職に政治家先生の口利きというのはよく聞く話ではあったが、まさか自分にそんな話が来るなど思いもよらず、 「えっ、でもマスコミ志望の人間が政治家の口

          ❼白浜仁吉郵政大臣と共同通信社

          ❻呼び屋メゾン・デ・ザールと新潮社と三島夫人

           1979年の夏には、本格的にマスコミ企業への就活を始めることになったのだが、その頃、僕はフランスの演劇を日本に招聘していた「メゾン・デ・ザール」という、いわゆる“呼び屋”の事務所でアルバイトをしていた。実は就職を考えはじめた頃、この事務所にそのまま就職してもいいのでないかと思っていた。ところが代表の今井正彦さんにはどうもその気はなく、逆に僕の就職を心配してくれて相談にのってくれるのだった。  今井さんは当時70歳ぐらいで、毎日新聞社の記者として戦前のベルリンオリンピックの特

          ❻呼び屋メゾン・デ・ザールと新潮社と三島夫人

          ❺週刊文春と週刊新潮。驚きの「週刊新潮」体験!

           さて、ジャーナリズムというものを初めて意識したのは、1974年(昭和49)藝大入試に落ちて浪人していた10月、月刊『文藝春秋』11月特別号に載った立花隆氏の「田中角栄研究~その金脈と人脈」と児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」を読んだことだった。大変な話題になったし、現職の総理大臣がこの記事によって退陣に追い込まれるという雑誌ジャーナリズムの金字塔となった記事である。その緻密な調査報道の形式と新聞が報じないスキャンダルを雑誌が暴くということに、世の中には新聞テレビでは報じられ

          ❺週刊文春と週刊新潮。驚きの「週刊新潮」体験!

          ❹藝大生のジャーナリズム志望?

           就職を考えるようになって、僕の場合は就職の仕方が分からない!という状況だったわけだけれど、1979年当時の文系大卒男子の就職活動がどうだったかというと、大学と企業の間で結ばれた就職協定というルールがあり、大学4年生の10月1日に会社訪問解禁、11月1日から選考開始ということになっていた。ところが銀行とか商社とか有力メーカーなどの大企業は10月以前から優秀な学生を囲い込んで秘かに内定を出すという、いわゆる「青田買い」が横行しているということが度々報道されていた。有名大学の学生

          ❹藝大生のジャーナリズム志望?

          ❸浪人せずして東京藝大に入るなかれ!

           さて、横道のさらに横道にそれてしまったけれど、僕の「ゲーダイ」体験に話を戻そう。中学生のときに、ボーイスカウトに入っていて、僕らの面倒をよくみてくれていた大学生のリーダー(指導者)たちが本部のそばの喫茶店によく連れて行ってくれたのだが、その喫茶店に、当時(1969年頃)としてはまず見たことのない長髪の男性がウエイターとして働いていた。そのウエイターについて同世代であったはずの大学生のリーダーたちが、「あの彼、藝大の建築科の学生なんだってさ」と何か羨望の的というか、凄いなあと

          ❸浪人せずして東京藝大に入るなかれ!

          ❷左利きの東京藝大

          1979年春、僕は東京藝術大学の美術学部芸術学科の4年生になり、卒業まで残り1年になった。2年浪人して入った大学だったけれど、それまでの3年間は、何となくアルバイトとたまに山登り、あとは女にかまけてロクに勉強もせずに低空飛行で進級してきた。  あの頃、いったい何になりたいと思っていたのだろうか。今思い返してみても不思議なほど何も考えていなかったように思う。中学・高校生の頃は漠然とだが絵描きになりたいと思っていたけれど、大学に入った頃には自分にはとてもそんな才能は無い

          ❷左利きの東京藝大

          ❶はじめに。二流の道

          誰にとっても人生は一本道だ。二つの道を歩むことは出来ない。真っ直ぐな道を歩き始めてだんだん道幅が広くなっていくような道を歩む人こそ、王道を行く人であり、一流の道なのだろう。僕のは同じ一本道でもクネクネと時に折れ曲がったりする道だったようで、たまに直線らしい道に出くわしても横切るだけで、どうも真っすぐ歩けなかった。 この40余年の編集者人生を大雑把に振り返れば、お堅い芸術雑誌に始まって、写真作家の写真集に関わり、文芸編集者をちょっとやって、サブカル的な投稿誌や女の

          ❶はじめに。二流の道