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❾瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。順番を変えて、その1

 この11月9日に瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなられた。
 横尾忠則さんとの『週刊朝日』での往復書簡を、体調不良ということでしばらく休まれていたけれど、すぐに回復されるものと思い込んでいたし、99歳の今までずっと現役作家として健筆をふるわれていたから、瀬戸内さんが亡くなるなんて考えないようにしていた気がする。百歳を超えて書き続けていくと信じていた。
 訃報に接して唖然としながら、あとからあとから思い出されることが溢れてくるので、今回、この回想記の順番をとばして、瀬戸内さんとの思い出を書いておきたい。

 僕は新潮社の後半の十数年は、『nicola』とムック写真集「月刊シリーズ」にほぼ専念していて、その関係者との付き合いがほとんどだったから、稀に瀬戸内さんの担当編集者だったことがあるという話をすると、たいてい驚かれる。僕の仕事のイメージと結びつかないのだろうし、自分でもそうだろうなと思う。

 そういえばつい最近も、関西出身のアパレルメーカーの熱血社長と話していて、何かの拍子で瀬戸内さんのことが出て、「昔、瀬戸内さんの担当編集者だった」と言ったとたん、その社長が「えーっ、瀬戸内さん、なんで今まで言ってくれないんや、僕の永遠のテーマなんや、何とかして繋いでほしいぃー」と叫んだので吃驚したことがある。そのアパレルメーカーの製品と瀬戸内さんに接点があるようには思えないので、瀬戸内さんに何を頼みたいのか聞くと、
「そうや、そうや、それが問題なんや、でも瀬戸内さんと繋がれたら、自分、完結するって思ってるんや」と言う。
 ちょっと神がかり的な話になりそうだったけど、とにかく社長の中で瀬戸内さんは特別な存在らしい。作家、僧侶という肩書を超えて、瀬戸内さんは人々に元気を与える不思議な存在になって、意外な人たちにまでその人気を及ぼしているらしい。

 僕の編集者人生で、文芸ジャンルでの作家担当というのはたった3年間の短い経験でしかない。筋金入りの文芸編集者たちからすれば、そんなものは経験などと言えるようなものではないのだが、瀬戸内さんとはその始まりの状況がなかなか難しいものだったので、僕の中で瀬戸内さんとの約3年の担当期間は、異色の体験であり、濃く、特別なものがあるのだ。

 1994年4月、入社から14年間在籍した『芸術新潮』編集部から、出版部に自ら望んで異動した。写真集やビジュアル書籍を手がけたいという思いからで、それを認めてもらっての異動だったが、出版部は、文芸出版社としての新潮社の要の場所である。その一員になった以上、写真集などを中心に手掛けるにしても、何人かの作家の担当も持つようにと言われ、瀬戸内さんを担当することになった。
 瀬戸内さんはすでに大物作家だったから、文芸の右も左も分からない新米出版部員の僕になぜ?と戸惑ったし、荷が重いなあというのが偽らざるところだった。

 少し事情が分かってくると、新潮社での瀬戸内さんの作品刊行は、90年の「わが性と生」(瀬戸内寂聴・瀬戸内晴美名義)、91年の「手毬」以降、進んでいる企画がなく、また瀬戸内さんと親しかった年輩の編集者も文芸部門から離れて久しく、要は、瀬戸内さんのことを真剣に考えている編集者が出版部にはいなかったのである。だから僕などに担当が回ってきたのだ。

 文庫編集部で瀬戸内さんを担当していた杉野加代子さんは、僕が異動してきた年に前述の2冊の文庫化を果たして、その後がないことにやきもきしていて、出版部がもっと瀬戸内さんのことを考えてくれないと困るとこぼしていた。出版部の僕の前任者は、文芸生え抜きで、売れっ子作家を何人も担当していたから、京都にいる瀬戸内さんにまで手が回らなかったという事情もあったようだ。

 ともあれ異動して間もない6月9日、京都嵯峨野の寂庵に、前任者と共に担当替えの挨拶に出向いた。
 初めてお目にかかったときの瀬戸内さんは、はっきり言って、とてもよそよそしかった。新潮社との関係がこの数年ただでさえ希薄になっていて、新たな担当者が小説家と付き合ったこともない文芸の素人だったのだから、がっかりもしたのだろう。それは新潮社が自分のことを重視していないという姿勢だと思われても仕方ないことだったかもしれない。
 結局、話は盛り上がらず、早々に寂庵を辞することになったのだが、「まいったなぁ」というのが帰り道での僕の思いだった。打開策も思いつかず、途方に暮れるという感じだった。

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