❶はじめに。二流の道

   誰にとっても人生は一本道だ。二つの道を歩むことは出来ない。真っ直ぐな道を歩き始めてだんだん道幅が広くなっていくような道を歩む人こそ、王道を行く人であり、一流の道なのだろう。僕のは同じ一本道でもクネクネと時に折れ曲がったりする道だったようで、たまに直線らしい道に出くわしても横切るだけで、どうも真っすぐ歩けなかった。
    この40余年の編集者人生を大雑把に振り返れば、お堅い芸術雑誌に始まって、写真作家の写真集に関わり、文芸編集者をちょっとやって、サブカル的な投稿誌や女の子向けのファッション誌へ。さらに写真がらみでエンタメ芸能界にも関わってきた。やはり首尾一貫していない。
    同世代の編集者たちを見渡してみれば、一貫した姿勢を貫いた人たちは、そのジャンルの専門家になり、ジャーナリストや研究者や大学教授などになって第二の人生を悠々と歩いているように見える。やはり首尾一貫、真っすぐな道を歩ける人こそが一流なのだ。

    僕が編集者の第一歩を歩みはじめたのは、1980年(昭和55年)に新潮社に入社してからだが、40年前の新潮社は老舗の文芸出版社としての格を誇り、その小説を中心とする文芸ジャンルと、出版社が初めて手掛けた週刊誌として大成功をおさめ、新聞社に対抗するジャーナリズムの中心的存在であった「週刊新潮」の二つの柱が、新潮社の骨格を成していた。文芸ジャンルと週刊誌ジャーナリズムの二大潮流のどちらかから、第一歩を踏み出せば僕の編集者人生も大きく変わっただろうけれど、僕が配属されたのは、二大潮流のはざまにあってどっちつかずの芸術新潮編集部だった。要するに最初から傍流。傍流ならば傍流として筋を通せば傍流の中の一直線もあっただろうに、いつの間にかそこからも外れてしまった。

    ところで僕はとても記憶力が悪い。本日(9月19日)66歳になって、老化による記憶力の減退かというとそうではなく、若い時から記憶力が悪かったのだ。数年ぶりに会った知人と「久しぶり!」と言いながら、この人といつどこで知り合ったのか思い出せない。しかも何とか辻褄を合わせながら話しているうちに相手も不審に思うのだろう。「宮本さんとはあの仕事をしたじゃないですか!」などと言われて、そんな仕事をしたっけ?と自分のした仕事さえすっかり忘れていてびっくりすることがあるのだ。自分でもまったく呆れてしまう。

    そんな記憶力の悪い僕でも、もちろん覚えていることもたくさんあるし、傍流だからこそ見えたことがいっぱいあるように思うのだ。そろそろ残り時間も少なくなってきたと実感もするので、今のうちにそれを書き記しておきたいし、それ以上に、この40年の時代の変化を出来るだけ具体的というか、自分が体験した細部にこだわって書き留めておきたいと思ったからなのだ。事実は細部に宿ると言うし。
    デジタル以前のまだアナログだった時代、携帯電話はなく、インターネットもなかった時代、あらゆる情報は、新聞、テレビ、出版などのメディア企業に独占されていたし、何か知ろうとすれば、足で歩いて集めるしかなかった時代。僕が関わった出版の世界も、編集作業の仕方や印刷方法も、もちろん企画の中身もどんどん変わっていった。そして何よりも社会全体の気分や雰囲気が刻々と変化していった40年だったと思う。
    近い過去ほど意外と分からなくなるものだから、自分の具体的な体験を書き記すことで、あの頃の気分を再確認してみたいし、もしこれを読んでくれる人たちがいれば、ぜひ共有できればと思う。
    ということで、話は基本的に時系列に沿って語っていくつもりだけれど、あちこちに話が跳びながらになるかもしれません。
    では、まずは僕が経験したマスコミ企業への就職活動からはじめましょう。

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