❺週刊文春と週刊新潮。驚きの「週刊新潮」体験!

 さて、ジャーナリズムというものを初めて意識したのは、1974年(昭和49)藝大入試に落ちて浪人していた10月、月刊『文藝春秋』11月特別号に載った立花隆氏の「田中角栄研究~その金脈と人脈」と児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」を読んだことだった。大変な話題になったし、現職の総理大臣がこの記事によって退陣に追い込まれるという雑誌ジャーナリズムの金字塔となった記事である。その緻密な調査報道の形式と新聞が報じないスキャンダルを雑誌が暴くということに、世の中には新聞テレビでは報じられないことがたくさんあるのだと感動した。その時の『文藝春秋』編集長の田中健五氏が、小学校卒のまだ50代という若さで総理大臣にまで昇りつめ、「今太閤」ともてはやされて人気絶大だった田中角栄への好奇心からこの大特集を企画したと語っていたのをどこかで読んで、雑誌編集者の存在を初めて意識したし、身近な好奇心こそが雑誌の原動力になることに興味を覚えた。

 田中健五氏はその後、『週刊文春』の編集長になり、今に続く和田誠氏による表紙にリニューアルし、硬派週刊誌には珍しく女性読者を想定するような誌面変革を行って、それも雑誌編集者の在り方を強く印象づけるものだった。つまり田中氏は僕の憧れの編集者第一号になった。
 ちなみに、ずっと後年、田中氏が文藝春秋の社長を退任されて間もない頃だったと思うが、あるパーティで先輩編集者に田中氏を紹介してやろうと言われて、初めてご挨拶するということでとても緊張した。十代のときにその存在を意識した最初の編集者だし。なのだが、そのときの田中氏はすでにグデングデンに酔っ払われていて、僕の名刺を何とか受け取ってもらっただけで終わった。残念ながら、憧れのスターは僕の中で行き場がなくなり、儚く消え去ってしまった……。

 ともあれ、田中健五氏の存在から、月刊『文藝春秋』、『週刊文春』を愛読するようになり、『週刊文春』の発売日と同じ『週刊新潮』の新聞広告が気になり、両誌を読むのが毎週木曜日の楽しみになった。木曜日の朝、まっさきに本屋に行って2冊の週刊誌を買うのが、浪人時代のほとんど唯一の楽しみになり、隅から隅まで読むのが習慣となって、以後何十年と続くことになる。
 僕の好みから言えば、文春の方が好きだった。月刊『文藝春秋』巻末の「社中日記」には、社長から新入社員まで等しく面白おかしい紹介記事が載っていてオープンな社風を感じさせたし、『週刊文春』の明るい誌面作りも洒落ていた。ところが同じ木曜日発売ということで、特集テーマがほとんど重なる『週刊新潮』を読むようになって、びっくり仰天するようになる。

 まず『週刊文春』から読む。ある事件の、新聞が報じない裏側を記事にしていて「なるほど、そうだったのか」と思い、次に『週刊新潮』の同じテーマの記事を読む。そこには文春が報じていたことのさらに裏側が、あるいはまったく思いもよらぬ異なる視点が記事になっている! そういうことが度々あって、これはもう取材力の圧倒的な違いを感じないわけにはいかなかった。だからか、今とは違って70~80年代週刊誌の販売部数は『週刊新潮』がダントツの1位で、文春はかなり引き離されていたようだ。ただ『週刊新潮』の谷内六郎氏の表紙絵は抒情的だけれどどこかもの哀しく、また毎週水曜日に「シュウカン シンチョウハ アシタ ハツバイ デス」と甲高い女の子の声で流れるテレビコマーシャルも、何か戦災孤児が親を探して叫んでいるような哀調を帯びて、いかにも古い昭和の気分。はっきり言えば暗いイメージだし、誌面から、編集者や記者の存在を感じさせるようなスキはなく、閉鎖的な印象だった。

 一方の文春は、菊池寛に始まり、池島信平、田中健五、半藤一利、花田紀凱、ごく最近の文春砲の新谷学というような面々の名前がすぐに浮かぶし、スター編集者というか話題になる編集者記者が目白押しである。文芸春秋と新潮社、文芸中心のライバル出版社ながら、ずいぶん異なる社風なのだなと感じた。


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