❸浪人せずして東京藝大に入るなかれ!

 さて、横道のさらに横道にそれてしまったけれど、僕の「ゲーダイ」体験に話を戻そう。中学生のときに、ボーイスカウトに入っていて、僕らの面倒をよくみてくれていた大学生のリーダー(指導者)たちが本部のそばの喫茶店によく連れて行ってくれたのだが、その喫茶店に、当時(1969年頃)としてはまず見たことのない長髪の男性がウエイターとして働いていた。そのウエイターについて同世代であったはずの大学生のリーダーたちが、「あの彼、藝大の建築科の学生なんだってさ」と何か羨望の的というか、凄いなあという感じで話していたのが、またまた僕のなかの「トーキョーゲイダイ」を高みに上げた。
 母から初めて聞いた「トーキョーゲイダイ」の名と、喫茶店でウエイターのバイトをしていた長髪の藝大建築科の学生の存在、この二つがずっと僕の心のうちに通奏低音のように鳴り響いていて、「東京藝大」は僕の中でどんどん特別な存在になっていた。だから高校に入学したときには、もう藝大志望になっていたのだが、クラブ活動は当然美術部かと思いきや、なぜか新聞部に入ってしまった。やっぱり一貫していない。多分、学校の美術教育と藝大の入試は次元が違うと思っていたからなのかもしれないが。
 ともかく中学生の頃から見様見真似で油絵を描きはじめていたけれど、高校1年の夏頃から、たまたま近所に住んでいた現代美術家の吉仲太造さんに絵の手ほどきを受けるようになった。
 吉仲先生は独学で絵を学び、戦後の50年代後半、岡本太郎氏に招かれて反画壇の前衛作家の拠り所となる二科会九室会の中心的画家として活躍し、その後は独自の活動をしていた孤高の前衛画家だった。その作品には常に社会批評の視点がありつつ作風は変化し、僕が師事(といえるほどの深い関係ではなかったけれど)した頃は、その卓越した描写テクニックを駆使したハイパーリアリズム的な作品を発表していた。また夫人が画材店を営んでいて、そこに美術評論家の東野芳明氏や瀬木慎一氏などがよく顔を見せていてちょっとしたサロンになっており、僕もたまにその末席で話を聞いていたりした。その頃、つまり70年代は現代美術の世界はコンセプチャル・アート全盛期だったから、一流の前衛画家や美術評論家の謦咳に接した高校生の僕は、わけもわからず頭でっかちになっていたかもしれない。

下図は、吉仲太造 真昼のエロス 1967年 油彩・カンバス 193×259 高松市美術館蔵

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下図は、吉仲太造 或る感覚 1971年 油彩・カンバス 53×45.5

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 僕の美術体験については、あらためて後で触れることにするが、吉仲先生は藝大を目指すなら、受験用の石膏デッサンをとにかく学ばなければダメだと言われたし、また藝大のデザイン科を目指している同級生がいて、彼女の両親が藝大の音楽学部の出身とあって藝大入試のあり様をよく知っており、彼女に誘われて、高校1年の冬休みに、初めて、代々木ゼミナール美術科の冬期石膏デッサン講習会に行った。
 ここから通常、藝大美大志望高校生の美術予備校通いが始まる。当時でいえば都内には、油画科に強い「すいどーばた美術学院」(通称どばた)やデザイン科などに強い「御茶の水美術学院」(お茶美)や「新宿美術学院」(新美)など有力な予備校がいくつもあり、春夏冬休みの特別講習を受け、さらに高校3年ともなれば、夜間の通年コースに通うというのが一般的で、早くから藝大美大に志望を固めている高校生は、遊んでいる暇などなく、高校よりも美術予備校の方に重点を置いて、志望学科で出される課題に習熟するよう切磋琢磨するのだ。しかも現役で合格する者は毎年数名いるかどうかという難関だから、藝大に合格する時点で、すでにセミプロ級の技量をもっていなければならないわけ。
 今のように情報がなく、知っている人に聞くしかなかった時代、地方の絵の上手い高校生が周りから勧められて藝大美大を受験して、試験会場で周囲の受験専門の高度な描き方をする受験生たちを初めて見て愕然とする、ということが多々あったと思う。そして、そこから長い藝大浪人生活がはじまるのである。
 ちなみに、僕は二浪で入ったが、五年六年なんてざらで、僕が入学した年は多浪生が特に多く、一族皆が藝大出身だという二十数年浪人して入ったという人がいた。その人はもう四十代のオジサンだったけれど、いつも楽しそうだった。藝大では一般に二浪ぐらいで入る者が一番多く、実は現役で入った学生は上級生になっても子供扱いされがちで、あまり居心地はよくなかったのではないかと思う。それに皆がどこかの美術予備校の出身で(出身高校は関係ない!)、新入生同士がとっくに顔なじみ、初々しさなどみじんもないのだ。またどこの予備校にもデッサンの神様といわれるような神話的な浪人生がいて、最終の学科試験で毎年落ち続けていたりするのだけれど、そんな先輩の達人浪人生に教えてもらったりした後輩が先に藝大に入ってしまうという悲喜劇は毎年のことなので、上級生と下級生の上下関係がほとんどない校風だった。ずっと年上の下級生がいっぱいいるのだから。

下図は、木炭による石膏デッサン

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 当時の東京藝大は、東大をはじめとする旧帝国大学を中心に分類される国立一期校に入っていた。受験シーズンになると国立一期校志願者の競争率が発表され、東京藝大美術学部の平均競争率が毎年ダントツで高く、だいたいいつも20数倍から30倍ぐらい(最も人気の油画科などは30~40倍ぐらいだった)。旧帝大などの難関校でも3~5倍ぐらいだったので、必ずニュースで話題になっていた。だから一般の人たちはとにかく競争率が異常に高い大学という認識をしていたと思うのだが、実質的には、半分ぐらいが初受験で事情を知らなかった“お客さん”だったのではないかと思う。もちろんこの高い競争率は、募集人員が少ないせいもある。一番多い油画科で50人、その他日本画科、彫刻科、デザイン科、工芸科、建築科、芸術学科を合わせて約200人の定員だった(現在は「先端芸術表現科」が新たに増えている)。毎年たった200人しか藝大生は生まれないのだから、周囲に藝大生の知人がいる人など滅多にいない。珍獣みたいなものだ。僕がやっと藝大に入ったときに母が、「息子さん、やっぱり長髪なの?」と必ず聞かれるといっていた。ちょっと長いぐらいだったけれど、でも僕自身が、喫茶店でバイトをしていたあの長髪の建築科学生に触発されたのだから、やはり長髪は芸術家のシンボルだったのだろう。

 また話がそれたけれど、僕自身は、美術予備校が性に合わなかった。夏季講習などにも通ったけれど、今でもよく覚えているのは、木炭で描く石膏デッサンで、どちらかといえば僕は繊細に美しいデッサンが好きだったのだが、ある程度描いた時点で講師からダメが出て、バサバサとパン(食パンやガーゼが消し具)で消されて、大きな力強い輪郭を描かれてしまったことがある。その時点で木炭紙は荒れてしまってもう紙に木炭がうまくのらない。一気に描く気持ちが萎えてしまった。きっと力強いデッサンでなければダメだということだったのだろう。当時の木炭石膏デッサンの流行りもそういう感じだったし。
 それ以来、美術予備校に熱心に通う気がしなくなり、吉仲先生の紹介で、藝大油画科出身で学生時代はデッサンの達人だったという豊島弘尚さんに石膏デッサンを見てもらうことになった。豊島先生は当時日本テレビで番組タイトルなどの美術の仕事をしながら、画家としての発表活動をしており、夫人もまた同じ油画科出身ということで、豊島先生の自宅アトリエに、週に何回か学校が終わったあとに通って独りでデッサンをしていた。夫人や在宅しているときに豊島先生にアドバイスをもらうような形で、まあ、のんびり独りで楽しんで描いていた。これもまた本来の藝大受験生の王道ではなかった。その後、学科試験が一次で、デッサンが二次という芸術学科に志望を変えたこともあって、僕の本格的な美大受験生生活は中途半端に終わったのだが……。

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