❻呼び屋メゾン・デ・ザールと新潮社と三島夫人

 1979年の夏には、本格的にマスコミ企業への就活を始めることになったのだが、その頃、僕はフランスの演劇を日本に招聘していた「メゾン・デ・ザール」という、いわゆる“呼び屋”の事務所でアルバイトをしていた。実は就職を考えはじめた頃、この事務所にそのまま就職してもいいのでないかと思っていた。ところが代表の今井正彦さんにはどうもその気はなく、逆に僕の就職を心配してくれて相談にのってくれるのだった。
 今井さんは当時70歳ぐらいで、毎日新聞社の記者として戦前のベルリンオリンピックの特派員などを務め、戦後は松竹が手を引いた文楽の復興に尽力して文楽協会の設立に関わって事務局次長を20年ほど務め、その間、文楽の海外公演や市川猿之助歌舞伎の海外公演などを手がけるなど、文楽、歌舞伎界はもとより国内外の演劇関係にとても顔の広い人だった。
 「メゾン・デ・ザール」は六本木のテレビ朝日通りにあるマンションのワンルームが事務所で、今井さんと、国際交流基金出身の鈴木允子さんという英仏語ペラペラの才媛の2人でやっている小さな事務所だった。僕は前年招聘したパントマイムの帝王マルセル・マルソー公演からアルバイトを始め、79年4月のセルジュ・ボド指揮・リヨン管弦楽団来日公演や5月のフランス国立民衆劇場(TNP)初来日公演「タルチュフ」など、公演前後の忙しい時期に、公演カタログの執筆者の原稿取りや、入場券の税務署での検印(当時は5000円以上の演劇チケットに税金がかかり、検印が必要だった)を貰いに行ったり、公演中は会場に詰めたりして、雑用係をしていた。

 僕の就活時期は、10月に開催するフランスのルノー・バロー劇団による三島由紀夫の傑作戯曲「サド侯爵夫人」日本公演の準備と重なっていた。
 このフランス版「サド侯爵夫人」は詩人で小説家のアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグによる仏語訳により、フランスの名優ジャン=ルイ・バローとマドレーヌ・ルノーの夫婦が創設したルノー・バロー劇団が1976年からパリのオルセー小劇場で上演を続けてきた話題の舞台。77年にルノー・バロー劇団の日本公演を招聘するなどバローと親交の深かった今井さんが、バロー自身から「サド侯爵夫人」の日本公演を強く望まれていたし、やはりこの舞台の日本公演実現に動いていた故三島由紀夫の瑤子夫人も、バローから「今井に任せてある」と聞いて今井さんに協力していたこともあって、夫人がよく事務所に来られていた。挨拶以外に僕が夫人と話をするようなことはなかったけれど、僕は熱烈な三島文学愛好者だったし、瑤子夫人が日本画の大家杉山寧氏の娘で、また弟さんがたまたま僕の父の勤める会社にいて消息を聞くことがあったので、何か勝手に身近に感じつつ、あの三島の夫人だと仰ぎ見るような、恐れ多い感じで見ていた。強い目元が印象的でちょっと怖そうな感じの夫人は、チャキチャキとはっきりものを言うし、小柄な方だったけれど、黒いマントとか着たらきっと魔女みたいだろうな、なんて内心思ったりしていた。

 鳴り物入りの話題作の公演準備で人の出入りも多く事務所が活気づいていた時期に、僕は今井さんとは毎日のように顔をあわせていたから、今井さんも僕の就職活動を他人事と思わなかったようで、「メゾン・デ・ザールが大いに儲かっている事業だったら、宮本君にはうちに来てもらいたいぐらいなんやけどね」と言ってくれ、僕のアルバイトとしての仕事ぶりをそれなりに評価してくれているのだなと、それはそれで嬉しかった。
 ただメゾン・デ・ザールは、今井さんが私財をつぎ込んで成り立っているような状態だったらしい。今井さんが郷里の大阪に帰る際に、「また山を売ってくるわ」と窓の遠くを見ながらよく呟いているのを耳にしたものだった。住友財閥などと関係のある関西の資産家の家に生まれた今井さんは、長身、かくしゃくとしていて、いかにもいい家の出という上品な風貌の銀髪の老紳士だったが、金持ちのボンボンがそのまま老人になったようなところがあり、鹿児島の旧制第七高等学校や京都帝大、そして毎日新聞時代のやんちゃな思い出話をよくしてくれた。戦前のベルリンオリンピックの特派員も、新聞社が自分を特派員に選んでくれないのに腹が立って、自費で勝手にベルリンに行って強引に特派員になってしまったと“自慢”(?)していたし、戦後は文楽や歌舞伎などの裏側でずいぶん私的なお金を使ったらしく、役者達の尻ぬぐいをいろいろしてきたという話も面白かった。今井さんによれば、文楽も歌舞伎もみんな我儘で滅茶苦茶な連中の集まりということになっていた。
 そんな今井さんのことを僕はきっと大好きだった。
 ちなみに京都帝大から毎日新聞という経歴は作家の井上靖氏と同じで、確か毎日新聞は同期入社だったと思う。親しい関係ではなかったようだが、「井上は不思議な奴で、新聞社では何やってるんだか分からないようなところがあったけど、関西の大御所の画家達の家にまるで家族のような顔してズカズカ入り込んでいるので驚いたわ」と語っていたのを覚えている。

 ともあれ、今井さんが話をしてくれて、共同通信社の編集委員で国際問題評論家として活躍していた倉田保雄さんが新潮社の編集者を紹介してくれるということになった。倉田さんは「メゾン・デ・ザール」の公演カタログの執筆者でもあったので、僕も原稿取りに行って面識があったのだが、「共同通信じゃなくて新潮社なんだ」と思った。自分のいる企業より、著者として関係のある新潮社の方が紹介しやすいということだったのだろう。『週刊新潮』を毎週愛読していたけれど、就職先として新潮社というのはまったく考えたことがなかったので、改めて自分の本棚を調べてみると、三島はもちろんのこと、蔵書のほとんどが新潮社のものだったのに初めて気づいて、購入する書籍がどこの出版社から出ているのか気にしたこともなかった人間が果たして出版社に向いているのか自問したが、これはこれできっと面接で使えるな、などと思ったものだ。
 ちなみに当時の新潮社は指定校制度をとっていて、東大京大早慶上智以外の大学出身者は社員の紹介があれば応募できるという形だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?