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木が「切るな」と言った/私自身の八重山①

まだ京都にいたときにある先輩から聞いた話を思い出す。

「転勤で北海道に住んだことがあるけど、北海道は日本であって日本じゃないよ」

なるほど、と思う。

私は沖縄県、八重山諸島の石垣島に住んでもうすぐ15年になるが、先輩とまったく同じ感想だ。

「八重山は日本であって日本じゃない」

最北端の北海道と最南端の八重山は、地理的にも中央(東京のことを八重山の人は中央と呼ぶ)から遠く離れている。

むかしは政治、経済、思想、文化などの統制は海を隔てた末端までは及ばなかったろうし、そのせいでとくに沖縄はいまでも地方の独自性を色濃く保っている。
行政区間は日本国であっても、彼らのメンタリティーはいわゆる日本人ではない。

先輩から北海道のくわしい話は聞いていないが、「日本であって日本ではない」とは、おそらくそういうことだと思う。

ちなみに北海道の人も沖縄の人も、本土のことを「内地」と言う。

また、沖縄の古い世代の人は本土のことをヤマトゥ、とも言う。たいして沖縄のことはウチナーと言う。

「僕はウチナンチュ、きみはヤマトンチュ」

八重山に来てから何度も聞いた言葉。
僕ときみは背景がまったく違うんだよ、と彼らは言いたげだかが、実際にほんとうにまったく異文化だ。

死生観も、人生観も、家族観、結婚観、男女関係、すべてが違う。芸能や祭祀の多さ、時間のながれのたおやかさ、あの世とこの世の距離の近さ、あげればきりがない。

それはそれはディープな沖縄だった。地理的にも八重山は九州よりも東南アジアのほうが近い。

そうした八重山での新しい体験にふれて、自分の出自や、自分が拠って立つ価値観はどういうものなのかを思わずにはいられなかった。

一度に書ききれないから、何回かに分けて少しずつ書いていこうと思う。

沖縄の裏社会は神さま事で成り立っている。
沖縄は女性社会である。
沖縄では神さまに仕えるのは女性だけである。
沖縄では女性は神さまである。

沖縄に住むようになってから聞いたことである。
沖縄と女性と神さま。

たしかに女性と神さまは近いような気がする。ここ、沖縄では。


石垣島の離島、竹富島。
人口350人の小さな島に、国の重要無形民俗文化財に指定されている種取祭(タナドゥイ)をはじめ18もの芸能と祭祀が伝わっている。由緒をかんじさせる島だ。

祭祀で演じられる芸能はすべて五穀豊穣を祈念して神さまに奉納する唄と踊りである。
島をあげての年に一度おこなわれるセレモニーへの傾倒は、ただならないな感じがする。

竹富島 種取祭 奉納舞踊    星のや



神さまに仕える女性を神司という。
神さまから指名されて司を襲名するという。
神さまから指名されたら断ることはできないし、また断ったら病気になると島の人から聞いたことがある。

竹富島で神司をしている人の御子息がこんなことを話していた。「おふくろが神司に指名されたとき親父が、ワシの目の黒いうちはさせない、と反対したんです。そうしたら、神さまが親父を(あの世に)連れて行ってしまいました」御子息は父から引きついだ観光業とエビ養殖の会社の社長さんで実業家である。いっけん神さま事と縁のなさそうな家の人だ。

しかし御子息から聞く竹富島での話はファンタスティックだ。
りっぱな黒檀の木があって、三線の棹に使ったらちょうどよさそうなんで、チェーンソーを持ってきて切ろうとしたら、木が「切るな」と言ったから切れなかった。
年端のいかない小さい子供が、とつぜん大人に向かって、大人びた言葉で神さまの伝言?を言うことがある。

ふつうに聞けば、この人だいじょうぶ?と怪しむような話も、私は疑わずに違和感なく聞いている。
島なら、そういう事があっても不思議ではないような気がしている。

こうしたサイキックな能力をもった人に八重山に来てから何人も出会った。
この人たちは市井の人としてふつうに暮らし、ときにあの世の先祖の言い残したメッセージをこの世の子孫に伝える媒介者の役割をしてくれる。
そして、霊界や異界がすぐそばにあることに気づかせてくれる。

島の祭祀、神さま事、あの世の先祖。
近代合理主義が否定したもののなかに、人のこころを癒やす、なにかがある。
部族や共同体への帰属意識をたかめることは、根源的な不安を癒やしてくれる。
それは私たちがここに生きている安心につながる。

安心感を求める人は、何度も何度も八重山に帰ってくるんだと思う。八重山の地母神に会いにくるんだと思う。

私は安心感がほしかったのだ。 
人生を生きていくためには安心感が必要だということに、八重山に来てから初めて気がついたのである。




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