見出し画像

再生を賭けた旅~秘境、網取での神秘体験(1)


 あの日のことは、忘れられない。

 四年前、五月の連休の最終日。私は西表島の網取でキャンプをしていた。目の前には東シナ海が広がっていた。

 そこは、三十数年前に廃村になった集落跡がある、定期便も通わない秘境だった。地元の人も行かない。まして内地から来た私には一生行くことはなかったはずの土地だった。

 キャンプの一行は網取出身の方たちが中心だった。

 網取行きの話を耳にしたのは、美崎町のたまたま入ったある酒場だった。私は住み慣れた京都を離れ、石垣島に来たばかりだった。亜熱帯の夜の空気は優しくて、いつもより開放的になっていた。

「網取は僕の故郷です……みんなでチャーター船に乗って……サンゴ礁の海を歩いて……獲った魚をさばいて……島酒を飲む…」

 その人は、網取でのキャンプがどんなに素晴らしいか、熱を込めて話した。こんがり日焼けした肌と動物的な光を宿した瞳をもち、海の匂いを身にまとっていた。なにか人間の根元的なエネルギーを感じさせた。私はまだ、それを知らない。知りたい、と思う。

 生命力あふれる大自然。ぞの中でのキャンプ。野生が私を呼んでいるような気がした。心が躍った。私の中で何かが閃いた。 

「私も連れて行ってください」「いいですよ」

 二つ返事で決まった。しかし、アウトドアの人でもない私がキャンプをする。しかも初対面の人についていく。あり得ないことだ。いえいえ、ここは南国の楽園。心のおもむくままに、まかせよう。

 その日、十七人の一行を乗せたチャーター船は石垣港を出発して西表島の網取を目指した。

 船は西表島の海岸線を並走して行く。外から見る西表島は、太古の森が広がり、人の手を寄せ付けない風情だった。そして、船を走らせども走らせども、島は、どこまでも果てることない大陸のように続いていた。

 チャーター船は途中、白浜港に立ち寄った。一行は、地元の漁師の小さい船に乗り替えた。

 エンジン音を吹かせながら、漁船は網取に着いた。ここは、みんなが多感な子供時代を過ごした懐かしい故郷だ。初めて来た私は、昔の生活の痕跡を探して集落跡を歩いてみた。

 それから、砂浜にテントを張り、夕飯の獲物の魚を獲りに向かった。

 網取からさらに船に乗り、行き着いたのは、初めて見る原始の海だった。人の手がまったく加わっていない天然のビーチ。しんとして音が無く、ここだけ時間が止まったようだった。別世界に来たような気がして、見とれた。

 やがて錨を降ろして、みんな一斉に船から降り始めた。

「ここから先は何も持って行けません。持ち物は船に置いてください」

 えっ、持ち物を置いていけって‥‥。この船頭さんは、なんて事を言うんだろう。私はしぶしぶ貴重品と携帯の入ったウエストポーチを外し、何も持たずに船から降りた。ドボンという音とともに、胸まで海水に浸かった。身体にまとわりつく波で着衣が濡れた。

 身体一つになった、と思った。一抹の不安が過ぎった。文明社会の必需品、命の次に大切なものを、すべて剥ぎ取られたような気がしたからだ。

 しかし、もう後戻りはできない。

 みんなは海岸線に沿って平行に、海の中を歩き出した。私は後を追った。足元が不安定なうえ、水の抵抗力で前に進めない。気がつけば、私が立っているのはサンゴ礁の上だった。急に寂しく拠り所のない感じに襲われる。

 前も後ろも、右も左も、ずっと遠くまでサンゴ礁が続いていた。踏みしめるたびにザクザクと音をたててサンゴは崩れ、足の裏にその感触が残った。

 サンゴ礁の上をみんなは、まるで走るようにすいすい歩いていく。男も女も健脚だ。魚の棲家さえ熟知しているのだろうか。海の生活に馴染んだみんなを、なにか尊敬の気持ちで見つめた。

 そうなんだ。大自然の中では、文明の必需品たちは役に立ちはしない。

 私は身体一つで大自然の中に解き放たれていた。

 サンゴ礁の海をもたもた歩く私に、一人の屈強そうなおじさんが手を貸してくれた。その太い腕にしがみついて歩いた。

 大自然の中で、私は一人では何もできなかった。ここに取り残されたら私は生きて帰れない。この時ほど人を頼りに思ったことはない。

(続く)



  

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?