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ホラーストーリーを浄化する「主人公」という存在

 ホラーは怖い。怖いお話だ。老若男女どのような人でも、ホラーを解さない者はおらず、見聞きしたことがない者もいない。ついつい知ろうとしてしまうのが怖い話であり、その顛末が気になり(呪われてしまうとしても)、そしてまた、癖になって現実のホラースポットなどに出向いてしまう人がいるのも頷ける。
 だから、当然の話と思うかもしれないけれど、ホラーには「怖いという感情」「怖い現象」「怖い体験」が不可欠だ。そういった描写を楽しむためにホラーがある。

 しかし、ふと考えてみる。そういった体験や感情は、ホラーにおいて一体誰のものなのか? つまり、もちろんホラーを鑑賞する人々(観客)という存在はあるけれども、ならばその人々は現実的にホラー現象の只中に放り込まれているのか?
 そうであるのは、実際にホラースポットに足を向けた人々か、呪いを受けている最中の人々くらいなものだ。そうでなければ、ただ、ホラーストーリーを鑑賞している人、ホラージャンルを楽しんでいる人々は、根本的にはホラーの主体ではない
 要するにホラーとは、そういう「ホラーを体験している、そんな状況にある登場人物」に感情移入し、ホラーを擬似体験する、というところに楽しみがあるのだ。

 そうなると、ホラーが楽しまれるためには、「ホラー現象の観測者」がいなければならないことになる。その観測者というキャラクターを通して、観客はホラーを目の当たりにしていくのであるから。
 それはたしかに、そうだろうと思える。観測者がいなければ、ホラーは伝達されないのだから。でも、ここでもう1つの問題が生じる。ならばホラー現象は、どうしてその観測者をすぐに呪い殺したりしないのだろうか。

 ここに、ホラーというジャンルの根本的な1つの命題がある。それは、「どのようにして、主人公が死から逃れ続けている理由を作り出すか」。ホラーは、言ってみれば超常現象である。それに常識は通用しない。だからあらゆる状況、立場、意味などにおいて、それは「死」を持ち込んでくる。そこに生きている人がいられるはずがないという絶望感こそが、ホラーなのだ。ならば主人公という特别な存在であってもそれは例外ではない。

 けれど、ホラーストーリーの側からすれば、主人公がすぐに死んでしまうことはミスマッチである。むしろ普通のストーリーにおいて、「語り手」というのはずっと存在し続ける。でもホラーは、本当はそれを許さないはずなのだ。全てを死で飲み込もうとすることこそ、ホラーの本質である
 だから、単一の主人公が、次々に起こるホラー現象を観測すればするほど、そこには矛盾が生じていると言わざるをえないのである。

 したがって、この主人公の「浄化能力」に、呪いが意気消沈してしまわないように、ホラーとは巧妙に形作られなければならないものになっている。いかにその理屈が通っているのか、もしくはそれすら気にならないように構成できるかというところに、「ホラーの上手さ」というのは、かかってくるように思う。

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