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作中で「為すべきこと」と「果たされるべきこと」の違い

 物語の中で、観客は特別な理由がない限り、「頭の悪い登場人物」を求めない。喉が渇いていて今にも死にそうなのに、水を飲まないとか、さっき禁止されたことをもう忘れて早速やってしまうとか、なんの意味もない嘘をつくとか、そういったものだ。
 これは、単に頭が悪いという言葉通りの意味ではなく、創作上のキャラクターというのは「なすべきことをなさない」時、大きく失望されるということだ。論理的な思考、理性的な行動、常識的な判断。基本的に、そういったものが求められるのが、キャラクターである。なぜなら、特別な理由がない限り、そういったことができないのは考えられないからだ。そんな「人物」をそうぞうできないし、共感もできないし、見ていたいとも思わない。
 即ち、そこには一定の「納得感」が必要だ、という話である。

 一方で興味深いことに、物語の中の「現象」については、観客は逆のことを求めがちである。つまり、「果たされるべき結果」は、できる限り引き延ばされるべきだ、ということである。大切な誕生日ケーキを届ける、大けがをした娘の手術が成功する、婚約者を殺した犯人に復讐する。そういった物語上の「重要な目的」あるいは、そうでなくともなんらかの因果について、その当然そうなるべき結果は、簡単に達成されてはならない。
 それはシンプルに、つまらないからだ。なんの山場も苦労もなく、そうしたいと願うことが叶ってしまうのは面白くない。それに、その願いが叶うのは物語の中の登場人物のものであって、観客のものではない。いわば、他人の願いがただ淡々と叶うことや、出来事が起こって終わるところを見聞きするだけというのは、あまりにも味気ない。
 ならば、そこになんらかのドラマなど、もっと引き付ける何かが欲しい。その答えとして、それらの現象は簡単には達成されないように、様々なことが起こる。観客はそれに十分引き付けられ、本来の目的の達成を願う。そういた過程が必要なのだ。

 物語の中で、「登場人物が為すべきこと」は、納得感のために速やかに為されなければならない。そこに特別な理由がなければ、それを引き延ばすことはつまらないのである。しかし一方で、「果たされるべき結果」は、簡単に達成されてしまう方がつまらない。だからできるだけ引き伸ばして達成されるべきなのである。
 為されるべきは為され、果たされるべきは果たされない。物語において、登場人物の行動と、事象の結果それぞれの求められているものは、大きく異なっている。

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