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とろう、コミュニケーション。ただし自分のペースで

 コミュニケーションをとらなきゃいけない場面では、相手のペースに合わせると失敗に終わる。だからもし、ちゃんと交流を図りたいなら、まずは自分のペースを守ることだ。
 コミュニケーションとは妥協のしあいである。互いに知らないことがあり、なのに共通点を見出さなきゃいけなくて、それは嫌でも疎通をしなければわからなくて、それで、互いの「本当」を見せ合ってぶつかることが、初めてコミュニケーションを成功へと導くのである。
 無論、といっても、そんな最初から自分をさらけ出すことなど、多分、どれだけオープンな人でもできない。だってそれは、怖いことだから。相手に自分を知られるということの恐怖は、まだ、相手が何者かも知らないうちに芽生える本能の所作と言えるだろう。
 なればこそ、私たちは本能に従って本当の自分をしまい込む。むしろ、自分すら知らない「本当」を、どうやって他人に解禁できようか。そうこうしている内にコミュニケーションは旬が過ぎてしまう。できない。失敗。だから次の機会には、まず、相手の出方をうかがおうと心に決める。

 それが失敗のループを生むと知らずに、私たちは相手のペースを知りたがる。わからないだろうか。それは相手に先制攻撃を譲っているようなもので、ただでさえ自分のこともわからずに不安なのに、そうして出てきた「相手のルール」に、自分が合わせていかなければならなくなることに。
 いきなりハードモードすぎる。何者かもわからぬ相手の仕掛けてくる、相手がお得意のゲームに初見で乗らなきゃいけないのだ。そう考えると、無理だとわかる。いや、無理だけど無理やりやってしまっているのだ。それがなお、失敗なのである。
 結局、先んじてオープンにできないという未知の恐怖に(もちろん、実際に失敗したかもしれないが)踊らされ、「様子見」に回る。その時点でそれはコミュニケーションではない。受け身が悪いのではない。自分のペースを出せないで、しかも相手のそれとぶつけられないままに、コミュニケーションなるものをしようというのが間違いなのだ。
 ぶつけていく。ペースを。リズムを。願望を。
 それで調整しながら、まさにそれこそがコミュニケーションの一環なのであり、そうして形作っていく相手との雰囲気が、人間のする交流というものであろう。

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