見出し画像

囚われの姫の行方が気になってしまうのは、物語がフィクションだから

 取られたものを奪い返すというのはそれだけで物語になる。失いたくなかったもの失い、そして探しに行くというストーリーは目が離せない。なぜなら、人は自分の物を失くしたくないからだ。失くしたことがない人はいないので、その行方がわかるまで、ついつい物語を追ってしまう。それがフィクションだとわかっていても。

 しかし、これにはもっと深い理由がある。わかっていてもフィクションなのだ。それは物語の読み手に起こった事件ではない。あくまでも物語の中の話である。目が離せないと言っても限度がある。
 それなのにどうして、失くしたものを探す物語は人気を博すのか。

 反対だ。その物語を見る時、失くしたものが見つかるかどうかを気にするよりもむしろ、自分がその物語の登場人物でなくて良かったと安心する気持ちの方が、物語への興味を掻き立てるのである。
 人はプラスの感情よりも、マイナスの感情の方が強く残りやすい。即ち、失せ物を探す登場人物を応援するのではなく、むしろ、嘲笑う気持ちによって、物語を見させるのだ。自分は高みにいて、その悲劇とは関係がない。しかし、それによってあがく人々がいる。その事実をもっと見たい。自らの安全圏にいるという現実を強く噛み締めたい。
 そういう心理によって、取られたものを奪い返すという過程(物語)を見続けてしまう。

 これが本当の仕組みである。そして基本的に、人はすべてのフィクションに対して同じ心理を抱く。だからホラーやサスペンス、ミステリーなどは、それそのものを楽しむという気持ちはありつつも、「これが現実でなくて良かった」もっと言えば「自分とは関係のないことで良かった」と思えることが、その楽しみの半分を占めている。

 ものを失い、そして取り戻そうとする物語はついつい見てしまう。それは、実は「自分はそうでなくて良かった」という安心感、さらには「自分に悲劇が降りかからないまま続いてくれ」という登場人物に対するマイナスの感情が私達の心に宿ってしまうからである。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?