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全ては印象。人間など主観の塊

 人の語りとは全て印象で言っていることしかないので、正しい発言というのはない。どれだけ正確な仕組みで情報を集め、インプットし、解釈した結果を持っていようと、語る人間が主観の塊であるがゆえにどうしたって「偏り」が生じる。主観とは本人にとっての正解の考えしかないということで、つまりは客観的に見て正しくないということだ。

 印象、とはそういうことである。

 私達ひとりひとりの脳は、当たり前のことだが物理的に切り離されており、歩んできた人生も人によって全く異なる。考えの共有は十分にできず、分かり合うこともそう簡単ではない。
 全ては自らの生きてきた人生からくる印象によって、物事は解釈され、理解され、意見として表明される。
 だから、どれだけ様々な情報を集めようと思っても、それらは必ず誰かの主観の塊であって、根本的に「分かる」形をしていないのだ。
 その上で解釈すら主観によるものなのだから、最早客観性など吹き飛んでいる。主観と主観のやりとり。結果として私達の形作る思想や考えというものは「自分だけ」のものになるしかない。
 全ては印象であり、根拠と思えるものも、事実も、証拠も、主観性を100%排除はできない。

 印象とは常に私達にまとわりつく、私達自身である。
 それを追い散らすことはできない。生きている以上、生きてきた以上。
 できるとすれば、この事実を知った上でなお私達が、正しさを探そうとすることだ。どうにかして主観にまみれていない情報はないか、自ら語ることはできないか。誰かの主観に飲み込まれて自分を見失うくらいなら、そうやって探し続けるしか道はない。

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