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自由がほしい私達は、自由をいつも疑っている。

「自由にして良い」と言われて困る人がいるのは、その「自由」という言葉が用いられると疑いの目を向けたくなるからだ。私達は根源的に、「自由」を疑っている。何故ならばそれは、あまりにも私達にとって都合が良すぎるからだ。「自由」。自由とは、自由だ。好きにしていいということである。あなたの考える通りにしていいというわけである。
 でも、本当にそんなことが許されていいのだろうか。

 根源的な疑い。それは、そもそも私達自身が、「自由」というものを誰かに与えたくないと考えていることに、起因する。自由とは、他者に与えるなら「野放しにする」こと。そして「許す」ことである。他者の、どんな行いをも、うんうんと頷いて、にこにこと笑て見ている。
 何をされてもそうだ。それが自由というものだ。そうでなければ自由などと呼ぶはずがない。そういう定義が、常識が、思考が、私達の頭の中をめぐっている。
 だから、「ご自由にどうぞ」に対して、私達は懐疑的なのだ。そんなもの最初から信じていない。「ご自由に」などと。自分が誰かに、という状況だったら、本気でそうしてほしいなどと、いつ、どこで言うことがあるだろうか? 本当に誰かに自由にして欲しい時など、人生において何度もあるはずがない。それなのに、その回数を遥かに超えて、私達の身の回りには「ご自由にどうぞ」があふれている。

 そのせいで、疑いはますます深くなるのである。本音と、建前だ。そう思ってしまう。誰も、本気でそんなこと思っているはずはないのに、そう言わなきゃいけないという空気感があるから。そうでなくとも、その「自由」は言外に制限されているのが常識だから。結局、それはほんとうの意味での「自由」ではない。むなしさ。はかなさ。
 それなのに、表面上はそれが嬉しいことであるかのように扱わなければいけない。自由を与えられたことを。そのような「自由」とは、なんと面倒なものなのだろうか。

 そういうわけで、「自由にして良い」と言われて困る人がいる。その人が特别なのではない。私達は大抵、自由を疑っているし、「自由」をいう表現に困惑している。
 そんなわけないのに、とどこかで思う気持ち。でも、それは「自由」という人間にとって喜ばしいもの。両側から引っ張られている気分だ。自由とは、私達が望むものであるからこそ、与えられると困惑するものである。そして信じたいものだからこそ、疑いの目を向けてしまうものである。

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