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自由はいつから悪になったのか?

 自由を求める。いつでもそれは理想だ。自由は私達をひきつけてやまないし、この人生を自由に生きられたらどれだけ良いことかと思い続けている。そして実際に自由を謳歌している人々を見て、それを羨むだろう。そうして自由を手に入れるために、私達は色々なことをする。その動機を見出す。

 だが、自由とはなぜこんなにも、簡単ではないと思われているのだろうか? あるいは私達はなぜ、自由を「簡単には手に入らない」と思ってしまうのか? 規制に縛られ、常識にとらわれてしまっている私達にとって、自由とはもはや「手が届かないもの」になりつつある。だから、それをわざわざ求めるということにコストを支払わねばならないように感じてしまうのだ。
 自由の対価に、たとえば「安定」を。自由の対価にたとえば「好み」を。そんなふうにして私達は、自由というものを入手する前提に、何かを犠牲にすることや、諦めることを必ず伴うと考えてしまう。そしてそれが誰にとっても当たりませで、あまつさえそうしなければ自由など手に入れられないのだとすら思ってしまう。

 そこから更に考えを進めていくと、私達は自由が悪なのだとすら思うようになる。それはどこか不真面目で、しっかりしてなくて、炎日を見ていない子供の妄想だ。そんなものを求めるくらいなら、真面目に働いて安定した収入と生活を得たほうがいい。そんなふうに、心の中の自分がアドバイスを押し付ける。
 しかしそこには、なんの根拠もない。いったいいつ、自由が私達の安定や真面目さや確かさ、現実を侵害したのか? そんな例はどこにもない。それらの邪魔をしているのは、まさにこういった、自由を認めない私達自身の認識や、社会構造や、制度や、歴史と、それを盲目的に受け入れる考え方そのものである。

 私達は自由を謳歌できる。それは特別なことではない。誰だって何かを諦めないままに、自由を手に入れていいのである。もしそれが許されないのなら、それは誰かの自由を侵害した時になるだろう。
 裏を返せば、その侵害さえなければ、自由を邪魔されるいわれも、受け入れられないいわれも、苦言を呈されるいわれもない。いつの間にか、社会構造というどうしようもない壁が立ちはだかり、諦めるように仕向けているだけで、本当は自由とは、まさに自由なもののはずである。

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