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伝えたいからこそ整えよう、という「主張」の呪縛

 別に「主張」はちゃんとしてなくていい。それはめちゃくちゃであって、そして自己中心的で、なんの配慮もなくて、誰にも理解されなくて。主張とは好きに叫べるもの。むしろ、好きに叫べなければ主張などする意味がない。もし、それができないのなら、そんなところで、そんな状況で主張する意味なんかない。
 それが正しいから主張するのではなくて、そうしたいから主張するのだと私たちは絶対に知っている。最初にあなたが主張した時、確実にそうだった。そうしたいからした。それだけ。その先のことなど考えなくても、主張は口を通過する。それこそが主張であって、真の思いである。

 ちゃんとしていなくていいのは、それが思いだからだ。体よりは私たちの心がその主張を形成している。そうである限りは、それはぐちゃぐちゃのままなのが正解の形だ。変にこなれようとして小綺麗な言葉を並べるよりは、並べられた言葉をそのまま口に出した方がすっきりする。まさに主張通りに。
 真実かどうかなどではなくて、自分に従っているかどうかが大切なので、適切なやり方とか、伝わりやすさとか、聞いている人のことを考えてとか、そういうのは放っとかれてていい。大事なのは「そうしたいか」だから。
 型にこだわって、本来の形を崩すのは、あなたの主張を違うものにすることに等しい。それでも言わなければならない時はあるにせよ、でもそれが本当の主張だと、あなた自身を騙すのだけはやめた方がいいはずだ。

 整わない主張を主張と呼べるように、自分の心に正直であることを。それを主張と主張できることを。

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