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オリジナリティへのごかい ②原体験

 オリジナリティという言葉の魅力はすごい。それは誰だって1度は求めたくなる魔性の概念であり、特別なことの証だ。オリジナリティを発揮するということは、まさに自分自身を遠慮なく表に出すということであり、そしてそれが認められるともなれば、まさに自分自身が肯定されたと思えるほどに気持ちがいいだろう。

 しかし、オリジナリティというものへの「ごかい」のうちの1つによって、こういった認識は歪んでいる。つまりオリジナリティとは、自分をこれ見よがしに見せるものでも、ましてや自分自身を認めさせたりするためのものでもないからだ。それを忘れてオリジナリティを運用しようとしてしまう時、あなたは罠にはまる。場合によっては抜け出せない罠だ。オリジナリティと称して自慰行為をするのは、それはそれは気持ちのよいことだが、それはまさに間違いなのである。
 何よりもまず、オリジナリティを発揮するためには「原体験を大切にする」ことを、いったんわきに退けておくことが肝要だ。それなのに、このことは誤解の1つとして、私達は中々手放せないものと言える。「原体験」。つまりあなた自身の人生の中のあるシーン。何かを決意した一瞬、真実に気づいた刹那、自分が人生をかけて向き合うと何かと出会った最初の時。
 オリジナリティが「自分」というものと、言葉の認識においてもイメージ上においてもわかちがたく結びついている時、私達はこの原体験にこだわってしまう。当然だ、それはあなたにとってとても大切なもの、あなたを形作る何かであるはずだからだ。そしてあなたの判断のほとんどは、その原体験を元になされている。
 けれど、オリジナリティを発揮するというのは、それを誰かに分かってもらう必要があるということを忘れてはならない。誰かとはあなたではない。誰かはあなたの全てを分かるわけではなく、何よりあなた固有のものである原体験は決して共有できない。つまり原体験に基づく全ての表現は、説明は、オリジナリティは、それが理解されるための形をなすことができないのである。

 ならばその原体験を、どのように分かってもらうのかということに意識を向けた方が、より良いオリジナリティを発揮できると考えるのが当然である。もちろん、分かってもらうのではなく純粋な自慰行為をしたいのなら、そんなことは関係ないだろう。しかし偽りなく自分の欲求を考えてみるべきだ。強がってはいけない。あなたは、オリジナリティを発揮するならば、それを認められたいと思うはずである。肯定されたいと思うはずである。評価に値するものだと、誰か他の人に思ってほしいものである。
 だからあなたは、あなた自身とも言える原体験を直送できるわけはないと気づくべきだ。オリジナリティとはそのような素朴なものではない。もっと形作られ、こねくりまわされ、変換され、抽出され……様々な考慮を経て発揮されるべき崇高なものである。
 時としてあなたの原体験はバラバラに分解されることもあるかもしれない。何も知らない第3者に解釈されて、思いもよらない整理整頓をされてしまうかもしれない。でもそれは、見せるためのオリジナリティとして誠に正しいものである。そのようにして初めて、オリジナリティはオリジナリティとしてあなた以外の人々の目に見えるようになる。

 オリジナリティを発揮する際に「原体験にこだわらない」という姿勢が大切なのは、このように、原体験はあなたにしか理解できないからだ。少なくともあなたのオリジナリティが他者に認められたり、肯定されたり、評価されるためには、それは見える形になっていなければならない。それには、原体験へのこだわりは邪魔になる。もっとそれを噛み砕くこと。あるいは、適度な距離を保って客観的に使用すること。
 それがオリジナリティへの誤解を解く、五戒の内の1つである。

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