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「信じられること」を忘れた。ヒーローの不在社会。

 人を、人は信じなくなっている。
 あるいはもっと広く、このよくわからない「生」というものを、誰ももう信用などしない。
 なぜなら1つには、その見返りがないからだ。もしくは、どんどんと少なくなっているように思えるからだ(仮にこれが事実でなくとも)。
 しかしそのような当然の事実ばかりではなく、つまり、人間は利己的な生き物だから、何か利益がなければ信じることすらしなくなってしまうのだ、というような話ではなく。
 私達が「信じない」ことの2つ目の理由として、どうしようもなく、明らかに、「信じられる者そのもの」を、誰もわからなくなってしまったからである。

 もうこの世界にヒーローはいない。かつてもいなかったかもしれない。でも、今から振り返ってみると、どうやらいたように思えるくらい、「信じられている人々」は存在した。だから、信じるということの価値はもっと高かった。誰もが何かを信じたいと思っていたし、実際にそうすることを目指していた。そして同時に、信じられる存在に憧れ、なろうとすらしていた。
 そのわけは最初に、模範がいたからだ。それはきっと、たいそうなことだっただろう。でもそうであった。信じられるままに。そして、今はいない。以前であれば信じられなければならないような立場の人々も、もうそれは、どうやらうんざりのようである。

 もしくは、やっぱり、模範がいないのだろう。模範。規範。お手本。憧れ。ヒーロー。
 その理由はそれぞれあるだろう。それこそ、利己的なうま味がかつてよりないからかもしれない。信じる力を忘れてしまった人々がたくさんいる今、もう信じられる側に回ることは困難を極め、かつ、そのリターンも少ない。
 そうするとどんどん、私達は信じられることを多分、見失っていく。同時に、信じることもわからなくなっていく。そのことが引き起こすのは、恐らくバラバラの社会である。好き勝手の社会である。そして弱肉強食の社会であり、自己責任の社会である。

 それがいいとか、悪いとか、そういうことではなく。
 ただただ、私達は信じなくなった。誰が最初にやめたのか、やめさせられたのか、自然の摂理なのか、わからない。でもとにかく、「信じられること」はごくごく小さくなっている。ヒーローの不在は、私達にまだ、渇望を覚えさせるだろうか。
 誰かを信じることは、簡単ではない。特に、それを続けることは。でも、まだそれを私達はできる。実際にそれは見なくなったわけではないし、時たま「わあっと盛り上がる」時がある。
 それは大事なものなのだろうか?
 わからないが、1つ重要なのは、「多くに信じられるにたること」は、それなりにレアなことである、ということだ。

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