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いつだって強制的な「努力」と向き合って

 努力をしろと言われた時、私達は大抵グズグズする。そして、そう簡単に努力なんかできたら苦労しないと思うだろう。重い腰を上げる前に、そもそも努力とはなんなのか、なんて意味深に考え始めてしまうかもしれない。

 でも、それはいいことだ。努力とはなんなのか? 確かにその正体を知らなければ、正しくそれをすることは難しい。現実逃避にせよ、努力と向き合うためにぜひそのことについて考えてみなければならない。
 この努力について、きちんと分かっている人は稀だろう。みんな、なんとなく努力をしているに違いない。我流で、誰かのやり方を真似て、何か別のやり方を上手いことアレンジしてみたりして。
 でも、根本的に誰だって努力は嫌いなのだ。できればそんなものせずに人生を過ごしたい。けれどそうも言ってられないから努力する。あれこれと方法を模索して、せめて自分に合っている努力をしようと画策している。

 実のところ、その私達のそういった努力への向き合い方が、努力への理解を遠ざける結果に繋がっているように思えてならない。つまり私達は、努力をするために努力をしている。努力はいやだから、それをするにはなんとか頑張らなきゃいけない。つまりそれは努力のための努力だ。
 それがために、努力は能動的な行為だと思われている。実際に行動するかに関わらず、少なくとも心理的に努力は能動的なものだと認定されている。

 しかし、努力は「する」ものではない。
 むしろ私達は、何かに強制されなければわざわざ頑張ろうとは思わない。
つまりその頑張る理由を見つけ、自分自身に自分を強制させることが最も苦のない努力の方法であって、それが能動的に見えているというだけだ。そして、他人に強制される(親や上司など、立場が上の者)ことは、基本的にはいやいや努力していることになり、本当の努力ではないとされてしまうのだ。
 要するに、元来努力とは、何か困難な目標を、自分にせよ他人にせよに達成「させられる」ことである。しかしその発端が自分であった時と、それ以外であった時に、その見え方が異なるというだけである。
 その上で、努力とは私達にとって嫌なものだから、その「自分以外のものから強制されている」という方が、もっともらしく真の姿のように思えているだけなのである。まさか、よほど意識の高い人間でもあるまいし(そういう人が稀にいることは事実だが)、自分自身に鞭打って、目標へと進ませることなどありえない。

 そういうわけで、努力とはいつも、強制的なものなのだ。その証拠に、私達はグズグズする。腰が重くて、現実逃避だってしてしまう。それくらい、誰にとっても努力は嫌いなものなのだ。
 とはいえ、強制的というのはむしろ、自分が自分自身に強制できるということでもある。そのようにして、きちんと努力の正体に向き合う時に、あなたは、あなた自身を努力へと向かわせることができる

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