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気づいてもらえないストーリーの要素を考える

 ストーリー上、気づかれないものは無いのと同じである。それは伝わらないこととはまた違い、その前段階、ストーリーの読み手が認識できるか否かという点における、分岐点の1つだ。
 ストーリーの提供者は、自己表現としての行為と、それ以外をはっきり認識し、より完成度の高いエンターテインメントしてのストーリーを紡ぐ義務がある。そうでなければ、独りよがりのなにものでもないストーリーが量産されることで、人間の物語文化は、日々劣化していくことになる。

 あるストーリーに無駄なものがないという判断は、この「気づかれないもの」が無いことを指す。それは全ての要素が読み手に伝わり、かつ認識され、そして味わわれ、感想を持たれる。
 そういったストーリーは、つまり完璧である。なんらかのストーリーを持つ創作物は、基本的にこれが目指されており、作者の満足感というのは、その表現がどれだけ「理解されたか」というところにある。だから作者はあらゆる工夫をこらしてストーリーやそれに付随するものを面白く、そして理解させにかかるが、一方でその仕掛けが込み入りすぎたり多すぎたりすると、例外なく理解されない要素が出てくる。それもまた、当然のなりゆきだ。

 ストーリーというものを構成する方法や、その結果作られる効果的な形・表現方法というのは枚挙にいとまがないが、それらは結局のところ使えばそうするだけ、「気づかれない」というリスクを背負っている。少なくともストーリーというものには「登場人物」そして「事件」更には「テーマ」といった3つは、大抵含まれている。これらについてはストーリー上で明らかに目立たせることができるし、その根幹をなすものだからそうそう気づかれないということはない。
 けれどもそれ以外、例えば「コンセプト」「モチーフ」「裏テーマ」「伏線」「設定」「世界観」といった、隠れていたり雰囲気的なもの、ストーリー上での役割がよく分からない(伝わらない)ものは、本当に影が薄い。これらは基本的にははっきり認識されることは無いと言って良く、認識できるのはかなりそのストーリーや、作品全体に入れ込んでいる者だけである。

 そして、それらは実際には、ストーリの「1つの要素」でしかない。それらを目立たせたり伝えようとする努力を否定はしないが、その労力の実りは微々たるものである。なら、最初からそういったものを伝えようと忍ばせたりする必要はない。つまり大切なのは、そういったものを気づかせたいのなら、「テーマ」とか「登場人物」とか「事件」と言えるまでに大きく取り上げる必要がある、ということである。そしてそうではなく、ただのいち伏線やコンセプトや世界観の片鱗といった程度にしか露出させられないのであれば、それ気づかれないことに嘆くのはお門違いだということである。
 そして、それが気づかれる前提で、ストーリーを運び続けてはいけない、ということでもある。

 ストーリーという表現方法は、様々な要素が絡み合って提供される複雑なものであるから、それによって提供できるもの、つまり気づいてもらえるものはそう多くないということを認識しなければならない。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ。


 


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