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無知を生じさせるモノ ①真実の撹乱

 知らない。わからない。と正直に告白することは怖いだろう。誰であっても、無知は罪だと教え込まれて行きてきたことはあるもので、それゆえに、素直に、自分の知らないことを受け止めて行動できる人間は少ない、
 どうしてかといえば、それは自分の価値を下げる行為だからだ。自分が、それほどでもない人間だとは思われたくないのに、そうだと自ら証明してしまうのは愚策である。
 ゆえに、知らない、わからない、とは言えない。同じように、他者に間違っている、そうではない、などと正そうとすることも難しい行動の1つだ。

 そもそも、私達はなぜわからなくなるのか。知らないことが発生するのか。一般的に知られていることですら、その知識の量には個人差がある。その差はどこからくるのか。

 よく言われることの1つに、実際のところ、私達はそこまで「真実」に興味がないというのがある。真実という、現実の奥の奥にあるような事柄を掘り起こしていくのは大変だし、メリットも見いだせない。だから真実はおいておいて、ともかく、この現実を受け止めようとする。しかしそれは本当のことではないから、わからないとか、知らないといったことが後から出てくるのである。
 つまり私達は、自ら真実を撹乱して生きている。あるいは、撹乱された真実に気づかずに生きているのだ。

 世界には隠された真実が多い。必要か必要ないかに関わらず、この世界の真実というものをすべて知ることは困難である。けれどそれ以前に、私達は真実を知ろうとする態度に劣っていて、鈍感で、どうでもいいとさえ思っている。
 これにより、無知というのは生じる。無知の正体は真実の撹乱であり、それは自ら起こすものだ。私達は、撹乱した真実の混ざったこの世の中を見ている。そこに生きている。そういう状態で手に入れられる真実とは、何かを知ったりわかったりすることからは甚だ遠い。

 もし、少しでもわからないこと、知らないことから遠ざかろうとするのなら、まずは撹乱された真実に気づくことだ。そして、その真実は「あなた自身が撹乱している」こともあるのだと知ることである。その撹乱が、バイアスや決めつけ、偏見、選り好みや身内びいきなどから生じる、正しくない判断の結果なのだと自覚すべきである。
 無知であることより、真実を撹乱させてしまうことを恥ずべきことと考えれば、私達はなおのこと、こと無知を回避しやすくなる、

※続く

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