見出し画像

人身事故と非常時の怒り

 人身事故で停車した満員電車の中で聞こえてきたのは多くのため息と舌打ちだった。慌てて電話を取り出して遅刻の連絡を始める会社員。その隣の背の高い女性が、少し顔を上げてまた何事もなかったかのようにスマホに目を移す。熱気と湿気が身じろぎすらできない空間の中で渦巻いていた。冬の外気は寒く、いつの間にか電車の窓ガラスは曇っていた。多分、みんなのため息がいっそう車内を暖めたのだろうと思う。
 その靄がかった窓ガラスには、こんなにも混雑した車内の人々の様々な顔が映っている。しかしみな、一様に無表情を装う。人身事故がこの電車を止めたのだとわかった瞬間とは打って変わって、乗客はその中にそれぞれの感情を隠す。俯いたり、うんざりしたり、少しだけ立ち位置を変えてみたりと動きはあるものの、それは一向に動こうとしない車両への抗議にもならない。

 ぷつり、という音を皮切りに車掌のアナウンスが流れる。乗客の意識が一斉に上へ向いた。ザラザラとした低音のアナウンスによれば、現在復旧に向けて調査を続けており、もう10分ほどで運行がかなうとのことらしい。ゆらりと、安堵が車内に立ち上がる。またぷつりと音がして、車掌のアナウンスは切れたようだった。立ち上がった安堵が乗客を包んでいく。友達同士らしい3人の男子高校生が目配せを送り合っている。なぜか笑いをこらえながら、何事かコソコソと話をしているがそれを聞き取ることはできなかった。
 しかし目の前の中年女性が不快そうに顔をしかめ、口を開いたのでその周辺の空気に緊迫感が生まれる。男子高校生の1人がすぐそれに気づいて顔をそらした。きっと、その仲間の中ではそういう役割なのだろう。彼の様子に他の2人も事態を飲み込んで、車内の広告に目を移し始めた。

 しばらくしてもアナウンスは一向に流れてこなかった。15分が経ち、少しばかり乗客の話し声に遠慮がなくなってきていた。まだ誰も、この電車が動き始めることを信じて疑っていない。どこかへ連絡する乗客たちの顔が切羽詰まっていた。それでも誰も、勝手に扉を開けたり喧嘩を始めたり怒鳴ったりといった、分別のない行動を取るものはいなかった。

 しかし30分が過ぎた頃、誰かが非常ボタンを押した。けたたましい音とともにそれは光った。扉からガコンと何かが外れたような音が聞こえた。きっと緊急時に手動で開けられるような仕組みが作動したのだろう。また誰かが、扉を開けた。それは思ったよりもあっさりと開き、乗客達と外を繋げた。彼らの表情に、清涼感と脱出への決意が影を見せた。
 だが、そこはいつもの駅のホームではなく、まるで工事現場のような駅近くの線路の途中だった。並ぶ線路はあちこちに曲がり、向こうには口を開けた不気味な倉庫が見える。錆びついた鉄パイプやトタン板が、トロッコサイズの何かの乗り物に立てかけてある。空いた扉に最も近い人々は、足元を見下ろした。かなり高い。そして地面にはゴロゴロとした砂利が敷き詰めてあり、茶褐色の線路も寝そべっている。
 勢い込んでいた人々は明らかに躊躇した。どうしよう、と思わず顔を見合わせる。その途端、ザザっと音がして人々は誰もが肩を震わせて驚いた。アナウンスだ。車掌は勝手に扉を開けないでほしいと注意を一言と、事故の復旧に時間がかかること、そして乗客をひとまず近くの駅におろすことを告げた。

 人々は気まずそうに、開け放たれた扉に切り取られた景色を眺めて、そして諦めた。まるで扉を勝手に開けた責任を押し付け合うかのように、その場には冷たい気まずさが流れ込んでくる。そうする内に開いていた扉が機械的に閉まり、わずかに解消されていた混雑が、また元に戻った。程なくして電車は動き出した。近くの駅が見えてくる。車両は全くいつものようにホームへと滑り込んで、不安定な揺れのあとにしっかりと止まった。そして扉が開く。

 どっと人々が降りて行く。ホームで待機していた係員が促して車両から人々をおろす。せきをきったように、清々しく人々は話し始める。その駅のホームはこれまでの歴史で全くなかったほどに人で溢れかえり、そしてその方方での話し声を慎ましやかに聞いている。
 あちこちへ連絡する人々。乗り換え先を探す人々。係員に抗議する人々。立ち尽くす人々。誰もが取り戻しつつあった。たった数十分間の非日常に車両ごと滑り込んで、そのトンネルは意外なほどに短く、また人々はいつもの陽の光を浴びている。彼らは生還した。この一時停止した車両から。
 なお、原因となった人身事故は自殺だった。受験を苦にしての若者の自殺。解放された人々はそのことを後で知って怒った。そんなことのために自分達は満員電車に閉じ込められたのだと。もっと鉄道会社はしっかりしてほしいと。それは連鎖し、社会にはあれこれと不満が流れた。自殺ではなく、電車を止めたことに対して。

 怒りは全て、向いてほしいところには向かないものだ。あるいは向かなければならないものに対しては、全く無力である。そして怒りが大きければ大きいほど、それは本当に見なければならないものをかき消してしまう。
 もしくは私達は、見たくないものから目をそらすために怒りを手にするのかもしれない。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?