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「誰かといる」ことが仕事になっていることがある

 世に仕事と言い表されるものの全てが、本当に仕事というわけではない。大抵の場合、仕事と言う時は何かの成果物とか作業とかがあって、そこにお金が発生するイメージだ。つまりそのような成果物とか作業がなければ、仕事とは言えないということである。
 しかし例外がある。それは「誰かといる」ことだ。ただそれだけのことによって、私達はよく「仕事をしている」気になれてしまう。誰かといることは、私達に「今日は仕事をしたな」と思わせる効力がある。

 けれど実際には、誰かといると仕事が捗らないのも事実である。なぜなら誰かといる時間というのは(本当にただ同じ空間にいるというわけでなければ)、私達自身のものではなく、自由に使える時間ではないからだ。そしてもちろん、誰かといるというだけで、まさかそれが仕事だとは、普通は認められないものだ。誰かといるのなら、その上で何をしていたかが大切なのであって、それが仕事の内容である。
 このことは言われるまでもなく当然のことだが、しかし依然として私達は、誰かといることをによって、なんだか「仕事をした感」を覚えてしまうのである。

 その代表的なものが会議であり、その他話し合い(雑談も)であり、意見交換会とか、説明会とか共有会とかいう「会」もそうである。名前がついていなくとも、誰かと一緒にいることは多々ある。それら全てが、なんとなく私達に「仕事然」としてふるまってくる。

 これは確かに避けようがなく、必要であり、もちろん誰かといないことなど中々に難しい(仕事をしているのならなおさら)のだから、何も悪いことではない。
 しかし私達は、その「仕事感」にもって警戒心をもって当たることが求められるはずである。警戒がなければ私達は、日々の大切な時間を、確かな仕事のために使えなくなる。なんとなく誰かといることや、一緒に何かをすること、そして巻き込もうとしたり、巻き込まれようとしたりすることに、どこかで線引きをすることが、肝要なのである。
 そうでないのなら、「誰かといる」ことそのものに価値を見出すようになってしまうのなら、その人の仕事をする目的は、もうどこかにいってしまっている

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