見出し画像

「具体」化の時代に「抽象」を見つめる

「具体」と「抽象」を比べる時、世の中には「具体」の方が溢れている。そして私たちは、その具体を何よりも重視して生活している。具体というのは、例えば ”物質”、例えば ”言動”、例えば "現象" といった、目に見えたり聞こえたりするようなものだ。そして更に言えば、この世にある具体はもっと概念的なものも含んでいる。それは例えば "中身"、"理論"、"目標" 等の頭の中にあったり、何か物事を一意に指した結果であったりする。
 具体は、この世の中にたくさんある。この世の中は、具体でできていると言っても過言ではない。だから私たちはそれを重視するし、その傾向はどんどん強まっている。中身のないものをもてはやす人はいない。目に見えないものは信じてもらえない。感覚よりも、理論が大事だ。そして私たちは、この「具体」の中に自分を埋没させ、具体の中にいることで守られていると思う。安心する。

 しかし、具体は、私たちの目を曇らせるような性質がある。なぜなら具体は、あくまでも具体でしかないからだ。それは、その状況や、その時々、場所、精神状態、人、時代等によって、いくらでも姿を変える粘土細工である。この世にある具体とは、だから、仮の姿でしかない。ある物事や現象や想いなどを写し取り、ひとまず触れる何かとして、目に見える何かとして、その瞬間に沿う形で出現する代替物。
  それが具体だ。そして「抽象」は、その裏にいる、新の姿である。条件によらず、その定義や性質やあるべき姿等を、ただ超然と示し続けるのが抽象である。それによって、具体は具体化される。それによって、具体はこの世に現れるきっかけをつかみ、その手助けによって私たちの目に触れられるようになる。

 この世で大切だとされる「具体」は、「抽象」によって存在することができているのである。ということは、この世は「抽象」によって生きていると言っても過言ではない。私たちが安心して具体に身を寄せられるのも、全ては抽象という存在のおかげなのだ。
 それならば、私たちは「具体」だけを取り上げて、この生を満足させるようなことはできないはずである。この世は具体でできているから、そちらに注目が行きがちだ。しかし、その目をもっと抽象に向けることで、私たちの目の前の具体は、もっと具体化する。そのようにして具体の奥にある抽象を、おぼろげながらでも理解しようとする時、あなたは、物事の本質を捉えることに成功しつつある。
 なぜなら、その抽象こそが、具体の正体だからである。具体をこの世に顕現させるきっかけだからである。具体を具体たらしめる、原因だからである。

 私たち人間は具体が大好きだ。それは当然のことであり、そうでなければ具体だらけのこの世を生きていくことは難しい。しかし同時に、具体を生み出す抽象を見誤ることなく観察できるようになれば、その人生がより本質的で、豊かで、余裕のあるものになる。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

※関連note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?