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「言われたことしかできない」?⇔「言われたことしかさせていない」?

 言われたことしかできないというのは、自分でも他人でも嫌なものだ。それは責められる対象になるし、プライドが傷つく。どうしてできないんだと自己嫌悪にだって陥る。人間は誰だって、自身の能力を限定的なものだと思いたくない。それで余計なことをして、反対に叱られたりする。
 言われたことしかできないというのは、そうやって誰かの能力が劣っているのだと認定してしまうようなことである。

 ただ、言われたことしかできないのは、言われたことしかさせないからなのだ。どうしてかこのことを、私たちは都合よく忘れてしまう。
 なぜなら、「言われたこと」があるということは、それは命令だからだ。言われた側は手下であり、言う側は上長だ。「言われたこと」を中心として、まずそういった上下の関係性があるのが前提。だから、下は上にそもそも従うしかない。
 これを無下にすることはそもそも前提を覆すことだから、それこそ許されない。言われたことしかしないことの批判以上に、敷かれたルールや規則を破壊することは罪深いものと揶揄されるだろう。だから結局、ルールの中で、言われたことをするのはまったくもって自然なことになる。

 それなのに、言われたことをするのでは不十分だったり、よくなかったり、間違っていたりということがある。その場合、非難されるべきは「言われたこと」そのものだ。それをやる人はルールをきちんと守っているのだから、設定が良くないと言わざるを得ないだろう。
 その責任は誰か?
 もちろん、言う側であり、上長だ。無論、その立場にいる人々もいち個人であるのだから、間違うこともあるだろう。だがそれを認めずに、「言われた」ルールを守っている手下を捕まえて、失敗の責任を押し付ける行為。それこそ、「言われたことしかできない非難」の本質である。

 気づくべきなのは、それを私たちはいつでもやってしまう性質を持っているということだ。言われたことしかできない、をさせた責任というものをすっかり忘れてしまう。認めれば、今度は自分が無能になってしまう。そんなのは嫌だ。だから責任の一端でも認められなくなる。
 言われたことしかできないことを警戒するよりもまず、私たちはそれを筋違いの非難の対象にしてしまうことをこそ、自分自身に戒める必要がある。

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