「正しき」ストーリー、そして「気持ちよき」ストーリー

 「この話は ”正しく” 面白い」と思うその見方を、私は大切にしている。そのような正しさへの眼差しは、それが自分の中で大切なものであるからこそ、育まれるものだ。だから私は、ストーリーを見るとき、そこに ”正しさ” を考える。そして逆に、ストーリーが面白かったとき、「それが "正しい" のはどこか」ということもまた、考えるべきものだと思っている。自分の中にはない正しいことの基準や指標は、まだまだ世界には多く存在し、それらをすべて集めるまでは、自分の中の ”本当の正しさ” に自信が持てないからだ。
 ストーリーという評価基準があいまいなものほど、この正しさを探究する心を忘れないように眼差すべきだと考えている。正しいものは必ずあり、そして間違っているものは正さねばならないからだ。

 そのような中で、正しく面白いこととは別に、「この話は ”気持ちよく” 面白い」と思うその見方も存在する。この評価軸は、正しさとはまた別の場所にあって、私をストーリーにくぎ付けにする。気持ちよさとは、基本的には本能的なものだ。人間の根源にある欲求である。それが刺激されることで気持ち良いと思うところ、そのきっかけがストーリーだったとき、それは「 ”気持ちのよい” ストーリー」と言える。気持ちよさは人間にとって抗いがたいものであり、ともすれば他の全てにおいて悪であっても、気持ちよければそれでよいということすらあり得る。だから、気持ちよさはときとして「悪魔の感情」であり、人類の歴史の中で排斥されることもしばしばあった。けれど、それでも、「 ”気持ちのよい” ストーリー」は、私は評価しなければならないものだと考えている。この感情をきちんと踏まえたストーリーは、私たちを問答無用で惹き込むから。感情を波立たせ、夢中にさせ、幸福にしてくれる。だから、気持ちよさは必要なのである。

 ”正しさ” と ”気持ちよさ” は、どちらもストーリーという評価のあいまいなものに、一定の枠組みを設けてくれるものである。そして私にとって、この2つが最も、世にあるストーリーを順位付けし、優先度を決め、優劣を判断するのに役立つ指標だと思う。即ち、あるストーリーが「正しい」と思うか、「気持ちよい」と思うか。この2軸での判断だ。そして、これらはあくまでも、「正しく・気持ちよく○○」という形で使うものであり、そこにはまた別種の理由や、価値判断がなければならない。
 即ち、正しさや気持ちよさは、ストーリーを測る指標の「結論を装飾する」言葉であるということだ。例えば他にも、「美しいから○○」とか「売れているため、△△」など、ストーリーという評価軸のあいまいなものには様々な結論が乗せられる。
 しかし数多ある装飾のなかでも大切なのは「正しさ」あるいは「気持ちよさ」であり、それらが導く結論・結果のために、ストーリーは洗練されなければならない、というのが私の考えである。

 どうあれ、ストーリーは最終的には、正しいもの、それに/または、気持ちのよいものである。この判断自体は個人的なものだが、しかし、世の中のストーリーを判断する正当な価値基準であることを信じている。

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