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量と頻度に惑わされる「真実」の海で

 嘘でも言い続ければ真実になるのは真実である。人には耳目が2つずつしかなく、脳は1つしかない。何かを考えるための情報を集めたり、確かめたりするためには一人ではどこまでも時間が足りない。ましてや、物事が本当かどうか判断するためにはどうしたって自分だけではなく、他人の手も借りる必要があるのだ。
 そうして私たちは、限られた環境の中で真実を見極めようと「情報量」を当てにする。提示された量が多ければ多いほど、頻度が高いほど、それは少なくとも、それだけの理由があるはずだと考える。だからそれは真実なのだ。限られた存在である自分よりも、そうした事実を根拠にするほうが、きっと正しいし、間違いが少ない。

 だが、現代は高度に情報化している。少し調べればエビデンスに辿り着けるし、遠く離れた専門家の意見だって閲覧することができる。かつて、そうした確認にはそれなりの時間がかかっていたが、今はそうではない。ならば私たちは、より確実に真実を見極められるようになっているはずだ。

 ……それが幻想であることを、私たちは知っている。
 むしろこの現代は、「嘘でも言い続ければ真実になる」の全盛期であると言える。高度に情報化して有利になったのは、情報を調べる側ではなく発信する側なのだ。なぜなら結局
本当かどうかを確かめるのは私たちひとりひとりの目と耳と脳であるのに、発信される情報は機械的に、いくらでも複製し、あらゆる人の手によって拡散することができるから。

 つまり私たちは、かつてよりもずっとずっと「嘘に弱い」。ある日突然、恐ろしい事件が起こったと言われたとして、それが本当のことなのか、どうなのか自らの確かめに行くことは難しい。あるいはいつの間にか気に入って聴いている音楽が、本当に気に入っているから聴いているのか、いつからかみんなが聴いているから気に入ったのか、説明が難しいことがあるはずだ。
 必ずしもそのすべてが嘘ではないが、しかし真実でもないものはこの世にいくらでもある。その真実の尺度は人それぞれだけれども、人の尺度の根本には「量」と「頻度」に甘いという穴がある。
 そしてそれは、誰もが簡単に情報にアクセスできるようになった今だからこそ、人間の大きな弱点として効いてくるのだ。もはや私たちはほとんどの物事を、直接自ら確認するよりも、間接的に誰かから、何かから知ることの方がずっとずっと多いのである。

 だから、嘘でも言い続ければ真実になる。真実とは「確かめられたもの」ではない。それは「そう思ったもの」でしかない。少なくとも私たちは昔からずっと変わらず、2つずつの目と耳と、1つの脳しないことを自覚しておくべきだ。
 そして、それを用いて処理しなければならない情報は高度に複雑化し、私たちの肌身からは距離が広がっていることもまた「真実」なのだと。

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