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「信頼」を、ただ信頼するとき

 かつての「信頼」は、いわば物質だった。それは明らかに目に見える形で提示され、やり取りされ、保管され、確認がなされた。もちろん現実的に信頼という名前の物質があるという意味ではなく、そうでしかありえなかったのだ。なぜなら、その信頼感を得るものはほとんどが目に見え、多くが私たちの身体と同じレベルにあったからだ。一部、信仰や計画や愛などの概念的なものに寄せられる信頼感を除けば、かつての信頼感はまだまだ物質的だった。そうならざるを得なかった。

 人間が生活スタイルを変容させ、多様性を獲得する中で、この信頼もまた変化していった。私たちの日常が現実だけでなく架空の世界へと、つまりデジタルの世界へと入っていくにつれて、信頼はその擬似的な空間にも広がっていった。私たちは信頼を、何より信頼している。信頼しているものには重きを置くし、それは優先されるものだと、この長い人類史の中で当然の認識となっているからだ。だから、私たちの生活が現実以外の場所に広がっていっても、なお、私たちは信頼感への感覚をそのまま保持し続けている。

 とはいえ、ここまで強固に保持されている信頼感も、変化せざるを得ない部分があった。それは、「物質的」であるという点だ。

 振り返ってみると、かつてのように、もはや私たちは、その生活の大部分が現実の世界で完結するとは言えず、より概念的になったし、目に見えなくなった。
 他者とのコミュニケーションは、場を共有せずとも、声を使わずとも行える。触れずとも対象の状態が分かるし、操作することも容易だ。情報は無色のまま空を飛び交い、ほとんど移動せずに、心や身体を満足させることすら可能になった。
 そのような生活スタイルの大きな変化があってもなお、私たちはそれを可能にする技術、システム、思想、常識、そしてそういった人間像に対して、どうにも、疑いなく信頼を寄せているようだ。かつて、物質的で現実的だった時代からすれば、目に見えないものはなかなか信じにくかったはずなのに。私たちはいつの間にか、無色透明のモノやコトを信頼して、生活している。それは既に、日常のあらゆる場所に蔓延していて、いわば空気のようなものだ。

 それが、信頼感の変化である。物質的なものに大半を寄せていたそれは、今や、そうでないものにも容易に寄せられるようになった。多分、それくらい信頼感は私たちにとって揺るぎないものだからだろう。私たちは信ずるべきものを信じていたのではなく、誰もが信じていたものを信じているに過ぎない。
 そして「目に見えないくらい当然だ」という常識が形作られた今、もうそれは覆ることがない。私たちは、私たちの身の回りにないのに、あるものを信頼して生きている。
 それが、そうであることを当然とする信頼感の中に生きている。目に見えなかったり、肌で感じられなかったり、実際に聞こえなかったり、味わえなかったりするものであっても、私たちの人生の中に存在を許され、信頼すらされる世の中。
 そういう今に、私たちは生きている。ただただ、それを「信頼する」ということのみを信頼して。今までずっとそうしてきた、人間の大いなる感覚のみを頼りにして。私たちは、見えないものに囲まれた現実が、信頼できるものだと信じて、生きている。

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