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死は芸術的に完成なのか

 作者の死後、芸術品は価値を増すことがある。著名な絵画や彫刻、デザイン、エンタメ作品に至るまで、その価格や世間的な評判は作者の生きている時よりもなお、亡くなった後の方が高まることが多い。
 もちろん、生前から多大な人気と価値を誇る作者もいるだろう。しかしその人がもし亡くなったとするならば、やはりその価値はなおさら、もっと上がるに違いないと思える。

 死とは価値の増進なのだろうか。あるいは芸術性の起爆剤か。この世にその人がいなくなってしまったという「だけ」で、どうしてその手に為すところの芸術品はより尊く思えてしまうのだろうか。
 恐らくそれは、ある種の残された人々の悔恨である。そして遺された作品による鎮魂である。人間は死後無になるが、死んでいない人々にとって死はむしろ生を強める。生前の活動をなによりも強く認識させるのは、もうできなくなってしまった後なのだ。そして唯一、この世に遺った作品というのは、その証である。作者が生涯を通して活動してきた確実な証拠。
 つまり希少性だ。
 もはやこれ以上増えることはない作品群に対して、どうしたって人は「作者自身の新たな可能性」を見出すことはできない。だから嘆き悲しみ、そしてせめて、今ある遺された作品の価値を高めて、慰みにするのだ。数が増えないのなら1つ1つの価値を上げるしかないから。

 つまるところ作者の死後に価値を増す芸術性というのは、残された人々の想いである。死はどこまでいっても無であり、この現実において影響しなくなるということだ。
 けれど生前までの影響は記憶や記録として遺る。もうそこに変更がない、加えられることもないという残念な気持ちが、芸術性に、その生きている人々の価値観に修正を施す。

 だから死は、1つの芸術的な完成なのかもしれない。だがそれ以上でもある。
 作者はもうこれ以上手を出すことも直すこともできないという点で、やりきっている。にもかかわらず、その後の評価にはまだ、死ぬことで変わる余地が含まれているからだ。

 芸術とは、それがどんなジャンルであれ、そして商業的であっても、受け取る人々の価値判断が完了しなければ、完成とは、そして先の未来を見るというわけには、いかない。

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