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短編小説

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#短編小説

品位なき生への、半分だけの復讐心。

 品位というものが感じられない世界で育った私には、品位というものがどういうのか、全く理解できなかった。捨てられないゴミの中で呼吸をし、洗われない風呂や衣類を着て過ごす。腹を満たすだけの食事をし、親との会話は罵声と叱責と暴力だけの一方的なもの。ある日この薄暗い部屋の中に大勢の大人が入ってきて、思わず顔をしかめてしまうくらいの良い匂いのする毛布にくるまれて明かりの中へと運び出されるまで、私はその「品位」という言葉とは全く無縁に、無縁ながらに、この世にかろうじて存在していた。 「

冬の自殺の肯定

「誰も何もできないからだよ」とその人は最後に言った。その日は雪が私達を凍りつかせるほど降っていて、昨日の見慣れた土色とは打って変わって真っ白になったグラウンドでは、放課後の雪合戦を楽しむ生徒達の声が聞こえてきていた。  その溌剌とした若々しい声は、淡々と振り続ける雪と空気の冷たさに濾されて、私にはとても白々しく聞こえた。それがなんの根拠もない被害妄想だとは分かっていた。でも、ここまで階段を何十段も駆け上がってきていて喉が痛いし、寒さで耳も鼻も痛いし、目の前の友人は屋上から飛び

虫のような女との結婚の話

「だからね、結婚なんて誰にだってできるワケよ」  綺麗な赤いネイル。虫の四肢のように細い人差し指と親指でつままれたスプーンをガチリとカップの縁にぶつけて、公子さんは最後の紅茶を一気に飲み干した。  よくあるチェーン店の喫茶店だった。平日だからか、他に客は少ない。夕方で窓から差し込む光の角度が変わり、仮面のように、彼女の顔には邪悪な陰影が貼り付けられている。私は思わずしかめた顔を気付かれないように、視線を暮れなずむ外に向けて、「そうですね……」と意味深なため息をついてみせた。

アリ、そして母のお菓子作り

 ゼリーに溺れてアリが死ぬということを、私は知ったのは小学生くらいのことだった。アリは溺れる。昆虫だから顔が埋もれても大丈夫なようだけれど、もがくうちに全身が埋まってしまうともうダメだ。他のアリが異変に気がついて、助けようとするのか溺れるアリに群がる。私はそれをただ見ている。ゼリーは、アリ達にとって、降ってわいた恵みだ。普段はそのようなもの、自然の中にはない。ただひたすらに甘く温かいその糖分の波に、アリ達は誘惑されて、犠牲を出していく。  誕生日に、親にねだって買ってもらっ

やる気の出ない仕事と、嫌いな人と、好きなもの

 星の形をした風船と、水玉模様の傘と、甘くないカフェラテが嫌いなのだと、彼はガラス張りの如何にもおしゃれな会議室で力説していた。片側の壁には大きなスクリーンがあって、そこには今日の議題の資料が映っている。反対側に皆が座っており、私はそんな彼らをスクリーンの横から見ている。  つまりプレゼンターは私だ。だからそのような雑談はやめて、さっさと進行させてほしい。でも彼の話を誰も止められない。それはいかにも仕事の話に結びつきそうで、あるいは人生の教訓的な何かに繋がりそうで、しかしその

雨のひとなくした者

 雨の日が憂鬱だと、最初に言い出したのは誰だろう。そのせいで、雨が泣いていることも知らずに、私たちは当たり前のように雨の日を毛嫌いする。  湿気や低気圧や、特別な服装をしなきゃいけないとか、電車が混むとか、傘の忘れ物が多くなるとか、人間側の都合を雨に押し付けて済ませている。でも雨がないと生き物は、それどころかこの地球は行き続けられないのだ。そのことをちゃんと知っている人は、きっとあめを毛嫌いしない。きっと土砂降りの日でも喜んで外に出かけていくだろう。なぜならそれは恵みの雨だ

休みの日のラジオコロッケ、そして昼の世界のスマホ

 斎藤椎実(しいみ)が休日に騙されたのは、もう何年も前のことだった。  大手企業に新卒で入社し、厳しい先輩や理不尽なクライアントに付き合い、業績とスキルをめきめき伸ばしていった。3年が過ぎ、とある新規プロジェクトの責任者として大抜擢された椎実は、それを妬んだ同期と、彼らを崇拝する幾人かの後輩、そして色仕掛けや賄賂にほだされた上司達によって、あっさりはしごを外された。  他の数社を巻き込み、会社の重要な転換点となるべきプロジェクトは足りない人員と、いつまでも到達しないクオリテ

”そういう”バイトと夜も目立つ広告

「でも、世の中の全部って結局はお金じゃん?」  閉店後の掃除を任された、針田望と大池七伊は、パティスリーのイートインスペースを掃除しながら、ダラダラと話をしていた。 「お金じゃねーよ。罰当番だって言ってんだろ」 「だって変でしょ罰とか。ちゃんと連絡してるのにさ」 「せめて3日前によこせよ。シフト出してんだからさ」 「それ、それも納得いかない。たかがバイトなのになんで他のことより優先しなきゃいけないのよ」 「じゃあ辞めりゃいいだろ……」  店は神宮前駅にほど近い、表通り沿いの華

ステラの事件簿⑨《雨の匂いは 2》

●登場人物  ・宝城愛未(まなみ)…欧林功学園の人気教師。ある冤罪を着せられる。  ・島原太東(たいとう)…学園OBで、学園システムのエンジニア。  ・大林星(すてら)…学園中等部2年の本作主人公。事件の解明に奔走。  ・中沢慶次(けいじ)…学園用務員。不審な女生徒について星に話す。  ・向田海(かい)…学園高等部2年で映像研究会会長。星の友人の兄。 ●前回までのあらすじ  地域では有名な中高一貫校、欧林功学園で男子生徒の体操着が盗まれる事件が起きてから1か月。星(すてら)

死と食事と聞きそびれた長い話

「彼、話長いじゃない、やっぱり」 「仙遇がですか?」  三井はナポリタンを口元に運びかけていた手を止め、まるで親しい者の死の報せを聞かされたかのような顔を見せた。テーブルの向かいで頷く坂野は、ちょうど最後の骨を、定食の焼き鯖から抜き取ったところだった。 「そうよ。彼と会うといっつも2時間くらい飲んじゃうもの」 「はあ……酒好きなだけでしょう、2人とも」 「そんな冷たい目しないでよ。本当なんだってば」  板野が猫なで声を出す。色香を含んだ艶のある目線が、三井を捉えるが、彼はそれ

100点の仕事は目指さないにしても

「ダメだあいつ、また45点出してきやがった」  依田川課長は先日買ったばかりの高価な椅子の背を思い切り軋ませて、書類を弾き飛ばすようにパソコンデスクの上に放り投げた。押しのけられた書類が逃げ出してデスクの上から落ちていく。その全てがしっかり落ち切ったのを見届けてから、向井はわざとらしくため息をつき、かがみこんで書類をまとめていく。 「悪いな」 「いえ、これが仕事ですから」 「バカ言うな、お前の仕事は経理だろ」 「ごもっとも。ならいいかげん片付けてください、机の上」  まとめ終

ただ、自分の死の後の世界を

 大泉昌は驚いていた。黄色いテープが張り巡らされた白いガードレールには、いくつかの花束が手向けられている。その交差点では先週事故があり、昌はそこで死んだのだ。事故だったが、そう受け取らない人々もいた。昌自身も、振り返るとあの時は特に気分が落ち込んでいて、落ち込みすぎて良く分からなくなっているくらいだったから、ふらりと赤信号に飛び出してしまったのかもしれないと分析している。  ともあれ、彼はそんな冷静な判断とは裏腹に、ともかく、驚いていた。矛盾するかもしれないが、彼の今の状態で

ステラの事件簿⑧《雨の匂いは 1》

●登場人物  ・宝城愛未(まなみ)…欧林功学園の人気教師。ある冤罪を着せられる。  ・島原太東(たいとう)…学園OBで、学園システムのエンジニア。  ・大林星(すてら)…学園中等部2年の本作主人公。事件の解明に奔走。  ・中沢慶次(けいじ)…学園用務員。不審な女生徒について星に話す。  ・向田海(かい)…学園高等部2年で映像研究会会長。星の友人の兄。 ●前回までのあらすじ  地域では有名な中高一貫校、欧林功学園で男子生徒の体操着が盗まれる事件が起きてから1か月。星(すてら)

地元の聖域

 「お腹が空いた」と感じることが多くなった。そう、彼は思っていた。午後、仕事の都合で都心を離れ、暇な時間に商店街をブラブラ歩く。今日の仕事は楽なものだった。まだ付き合いの浅い取引先の支社へ行き、簡単な会議に出て、そこでの意見をまとめるというもの。  念のため1泊することになっていたが、彼は、取引先の飲みの誘いを断った。まだ、信用に足る相手かどうかが分からない。それを探るための仕事だと思っていたからだ。会議で良く発言する人間はいたが、今のところ、威勢がいいと思えるだけでしかなか