100点の仕事は目指さないにしても

「ダメだあいつ、また45点出してきやがった」
 依田川課長は先日買ったばかりの高価な椅子の背を思い切り軋ませて、書類を弾き飛ばすようにパソコンデスクの上に放り投げた。押しのけられた書類が逃げ出してデスクの上から落ちていく。その全てがしっかり落ち切ったのを見届けてから、向井はわざとらしくため息をつき、かがみこんで書類をまとめていく。
「悪いな」
「いえ、これが仕事ですから」
「バカ言うな、お前の仕事は経理だろ」
「ごもっとも。ならいいかげん片付けてください、机の上」
 まとめ終えた書類を、乱暴にデスクの上へ置きなおす。それももちろんわざとだ。そんな向井の様子を眺めていた依田川は、自身に与えられた課長という肩書を、つくづく向いていないな、と思うのだった。
 新入社員の大津の扱いには困っているし、こうして向井にも睨まれることが増えた。今日はもう3回目だ。こいつもそろそろ、眉間にしわが取れなくなるのではないか?
 ――女性社員に言ったらセクハラになりますよ
 つい先日、しわだの年齢だののことをちょっと口にしただけでそう忠告されてしまった。最近はそういうことにも注意しなければならない。実際、依田川はこの役職になって、特に女性の部下とはよけいな交流をするのを避けるようにした。そっちの方がスムーズだと考えたからだ。現実には、コミュニケーション不足からかトラブルが少なくないのだが。
「はあ……」
 軽口を言い放った自分の口から、ため息がもれるのを、依田川は抑えきれなかった。ここ数年で、本当に社会は息苦しくなったものだと思う。セクハラの話もそうだが、コンプラだの働き方改革だのリモートワークだのなんだの。
先ほどのように気安く言い合えるのは、社内では向井くらいのものだ。こいつはけして敬語も固い態度も崩さないが、誰に何をどんなふうに言われても、毅然とした態度で返す。変に感情的になったりはしないが、軽口には軽口で、真摯な態度には真摯に対応している。つまりは、会話する人間に合わせているのだ。もともとそういう性格なのか、社会生活で身に着けてきたのか、経理という職務上培われたものかわからないが、そういうところが、向井を会社の人間のほとんどが信用している理由だった。
「……なんですか、まだまだ用事でも?」
「あー……いや、なんでもない。大津の件だけだ」
「じゃあ、今週末の特別研修については受理しておきます。くれぐれも申請時間を越えないように」
「でもあいつの物覚えじゃなあ……」
「それを管理監督するのがあなたです」
 向井は冷たく言い放つと、自分のデスクへ戻って行く。途中、2年目の中川という女性社員が何事か話しかけていたが、依田川には関係のないことだった。今日中に、週末のための資料を完成させなければならない。あの新人のために、出来る限り単純でわかりやすいものを作らなければと、依田川はパソコンの画面に映る資料制作ソフトを睨んだ。

 翌朝の会社。
整然とデスクの並ぶフロアには、コピー機が紙を吐き出す音が良く響いた。依田川は、いつものコンビニで買ってきたコーヒーのにおいを鼻に吸い込みながら、白い四角が1枚1枚機械から出てくるのを憮然と眺める。昨晩はあまり眠れなかった。家を出たのは、平日のいつもよりも2時間は早かった。あっという間についた会社には、もちろん、ほとんどの社員が出勤していなかった。コーヒーを口に運んだところ、ちょうど、最後の1枚が印刷され終わったところだった。
「……朝飯、食ってくるか」
依田川は時刻を確認する。予定の時間までは1時間以上あり、ちょうど小腹も空いてきていた。会社近くにちょうどいいカフェがある。そこで、資料の最中チェックがてら胃に何か詰めようという算段だった。どうせ研修が始まれば、夕方近くまで何か食べている暇はない。それくらいの覚悟でないと今日中に終わらない。もしそうなれば、またどこかの休日に研修をするか、残業をさせねばならなくなる。そうするとまた、向井に販管費やなんやで口うるさく言われることは目に見えていた。

「――できました、課長!」
 新入社員の大津が活き活きとした表情を依田川に見せる。その何度目かの笑顔に、依田川はため息を抑えきれなかった。
「ダメだ。もっと考えろ」
「でも、自分なりのこと絵を出して、それを見てもらった方がいいじゃないですか」
「違うって言ったろ。正解を出さなきゃ0点だ。学校と同じ」
「うーん……」
 大津は納得いかないといった様子で、机の上の紙に向き直った。
会社の一角にある会議室で、依田川と大津は2人でいる。会議に使う長テーブルを贅沢に使って、大津は印刷された紙に書かれた問題を解くことになっていた。ビジネスマナーから始まり、会社の理念や、自身のこれまでの仕事の役割や目標等、そういったことに関わる事柄を、あれこれ問われている。
もちろん、この問題は依田川のお手製で、彼はこの研修にある程度の自信があった。1日で、この仕事のできない新人を使えるように教育するつもりだ。実際、向井には苦言を呈されたが、役職外のことは黙っていろ、と一蹴した。いくら、新人がどうしようもなく仕事ができないからといって、最初は誰でもそうなのだし、このように教えてやればなんとかなると依田川は思っていた。しかし――
「できました!」
再度、満面の笑みで答案用紙を渡してくる大津。随分早い。依田川は期待しないままそれを確認してみて、やはり、回答が不完全なままであることを知る。先ほどの回答とは確かに違う答えだが、その質は同じようなものだった。
「これでいいと思うか?」
「いえ、でもいつまでも悩んでるよりいいと思いまして。仕事もそうですよね」
「……」
大津は自信満々でそう答えた。何かの本でも読んだのだろう。迷惑な話だ。彼は、まるでそれが、信ずべき神の言葉であるかのように考えているようだった。それを唱えていることが崇高で、あまりにも尊いことであるかのように。
しかし、依田川は首を振った。つまりこの新人は、仕事とは完全よりも、その早さのほうが大事だと言っているのだ。そのためならば、仕事の完璧さは目指さなくても良いと。だから彼は、この研修も早く切り上げましょうと、暗に言っているようだった。
「ダメだ。そういうのは60点か70点出してから言え」
 依田川は用紙を突き返した。
「これは45点……もっとひどいかもな」
 不遜な新入社員は無言でその用紙を言うけとると、また机に向かう。直接入ってこないが、その雰囲気には不満がありありとあふれ出していた。そういうのも、最近入ってくる社員らしい。どうせ研修が終わったら、友人と陰口でも叩くのだろう。だがそうだとしても、彼に出来るようになってもらわなければ、少なくとも今のような考えを改めてもらわなければ、会社として困る。
「トイレ行ってくる」
「はい」
 依田川は、息が詰まりそうな会議室を出て、静かな廊下を、トイレのある方とは逆に歩いた。追加の答案用紙を取りに行くつもりだった。この調子では、問題の解説と一緒にするつもりだった講義から入ったほうが良かったかもしれない。
 どちらにせよ、大津には自分で納得がいくまで、きちんと考えてもらわなければ。そういう力をつけてもらわなければならない。
「45点じゃなあ……」
 改めて、依田川は思い返すと、ため息をついた。自信があったはずなのに、今日のこの内容でいいのかと不安になる。彼は自分のデスクに戻って、散らかったままの卓上をしばしながめ――
「――あいつ、多分電話出るよな」
 向井の番号を呼び出すことにした。去年の忘年会で、社用ではなくプライベートのものを教えてもらっていたきり、1度もかけていない。驚かれるかもしれないが、あいつのことだ、初めてかけるからこそ、緊急事態を察してくれるだろう。
 電話を耳に当てる。
数回のコールの後、果たして、向井は電話に出た。


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