ただ、自分の死の後の世界を

 大泉昌は驚いていた。黄色いテープが張り巡らされた白いガードレールには、いくつかの花束が手向けられている。その交差点では先週事故があり、昌はそこで死んだのだ。事故だったが、そう受け取らない人々もいた。昌自身も、振り返るとあの時は特に気分が落ち込んでいて、落ち込みすぎて良く分からなくなっているくらいだったから、ふらりと赤信号に飛び出してしまったのかもしれないと分析している。
 ともあれ、彼はそんな冷静な判断とは裏腹に、ともかく、驚いていた。矛盾するかもしれないが、彼の今の状態ではそのような心の不整合が起こっても不思議ではない。昌の目の前には1人の男がいた。事故が起こった周辺の交通規制は解かれて久しく、もはやかつてのように、あるいはかつて以上に、車たちはスピードを上げて道を飛ばしている。
 それを昌はさっきまで眺めていた。自身の、混乱によって渋滞する心を少しでもスッキリさせるために。しかし実際は、自分が死んだときのことを思い出して全く気持ちが晴れなどしなかったわけだが。
 そんな折、彼の視界に入ってくる1つの影が、今、ごうごうとうるさい交差点の一角で、昌に花を手向ける1人の男だった。

 昌が目覚めたのは恐らく1月ほど前のことであり、視界に色が戻ってからしばらく経っても、彼は、自分の身に何が起こったのか理解していなかった。最後の記憶は、恐らく、全身を貫く巨大な痛みと、明滅する光、車の赤という色くらいだった。その記憶から彼は、自身がまだ生きていて、車にはねられ車道に転がっている状態なのだと思った。けれど身体に痛みはなく、それは麻痺しているからだろうと思えても、気づけば、自分が道の傍らに立ち尽くして、目線も身体も動かせないことを知ると、ただただ、それがどういうことなのかを理解できずに混乱していた。
 10日経って、彼は自分が見続けているのがいつもの通学路で、そして事故現場であり、どうやらその事故が起こった後だと了解していた。警察らしき人々の調査や、道行く人々の会話、刻々と直されていく道の状況などがそうさせていた。17時には子供を家へ帰らせる音楽が鳴った。昌はそれを昔からずっと聞いていたから、時間の経過もよくわかった。
 20日目に出した彼の結論は、自分が幽霊(しかも地縛霊)になったというものだった。死んだこと自体を受け入れたのは、もっと早かった。まるで初めからそうであったように、彼は死を当たり前だと思っていた。これは、昌自身、彼の人生にあまり未練がなかった――というのは格好をつけすぎだが、死んでしまったということよりも、それならばなぜ、彼はこうして様々な出来事を見させられているのか、ということに注目がいってしまい、悲しむ暇も、怒る暇もなかったのである。また、記憶は霧がかっていてあまり思い出せず、そのことも、彼の冷静さに一役買っていたし、彼が人間ではなくなってしまったことを証明しているようにも思えた。

 そいて1月目に、彼はこの男を見たのだ。久しぶりに動揺した。平穏から乱れるはずのないと思っていた心は――そのようなものが幽霊にあればだが――あっさり混乱していた。その男は昌が生前、恨みに恨みを募らせていた人物であり、端的に言って、昌が学校でイジメに遭う原因を作った首謀者だった。
 だから、昌は混乱していたのだ。なぜあの男が花など手向けに来るのか理解できなかったから。昌は目の前の様子を凝視した。男はしゃがみこんで、何事か話しかけているようだった。昌はそこではなく、後ろにいるのだが、当然気づくはずもない。男は花だけでなく、誰から聞いたのか、昌の好きだったアーティストのCDと、学校近くのパン屋で買える惣菜パンをお供えした。そして男はもう一度手を合わせて、目をつぶる。しばらく車の行きすぎる音だけが、いやに大きく聞こえた。17時にはまだ遠く、近くを通る通行人もいないようだった。だから昌は、イジメの首謀者の後姿を見つめなければならなかった。
 思い出す。あの男はああいう背中だった。嫌に筋肉質で、広い背中。うなじはいつも出ていて、浅黒い肌に金のネックレスが浮かび上がるようだった。いつも見ていた。それくらいしかできなかったから。授業中、休み時間、イジメられている最中、解放されて帰っていくヤツらを見上げた時。見慣れたものだった。それを今になってまた見せられることになるとは。彼は目をそらせなかった。まるで固定されているかのように、首は回らず、目をつぶることも許されない。そんな機能はないとでもいうかのように。

 そうする内、男は立ち上がった。左右を見て、横断歩道の方に向かって歩き出した。もちろん、供え物は置いたままだ。片づけるはずがない。多分、帰宅するのだろう。
 その横顔は随分晴れ晴れとしていた。やることをやり切った顔だ。その表情にも、昌は見覚えがあった。普段は自分では手を下さないあの男が、月に1度くらいは昌に直接暴力をふるう。それが終わった後、昌は地面に転がりながら、男のすがすがしい顔を見上げるのだ。そのような情報が、まるで渋滞が解消されたかのように、昌の頭の中に流れ込んでくる。

 男はどんどん小さくなっていく。昌はそれをただ眺めている。彼の視界は段々と暗くなっていく。死してなお、彼は見せられたのだ。なんの意味もなく。自分が死んだ後の世界を。彼の死が全く影響を及ぼさなかったというわけではないが、しかし、もちろん彼のために何かをしてくれるわけではない。死んでしまえば終わりだと。
 あの男だけでなく、どんどんと遠ざかっていく自分自身の事故現場の景色を最後に眺めながら、供えられた物品たちが、昌に届けられることなくただただ朽ちていくのをもったいないと思った。
 しかし、そのことに気付けるのならばそもそも人は、人を傷つけるようなことをしないのだと、昌は思った。

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