”そういう”バイトと夜も目立つ広告

「でも、世の中の全部って結局はお金じゃん?」
 閉店後の掃除を任された、針田望と大池七伊は、パティスリーのイートインスペースを掃除しながら、ダラダラと話をしていた。
「お金じゃねーよ。罰当番だって言ってんだろ」
「だって変でしょ罰とか。ちゃんと連絡してるのにさ」
「せめて3日前によこせよ。シフト出してんだからさ」
「それ、それも納得いかない。たかがバイトなのになんで他のことより優先しなきゃいけないのよ」
「じゃあ辞めりゃいいだろ……」
 店は神宮前駅にほど近い、表通り沿いの華やかな立地に構えられていて、2人がこうしている間にも、店灯りに誘われた通行人が立ち止まってのぞき込んでくる。
 望はそのたびにモップをカウンターに立てかけて、わざわざ店の外まで出て行き説明していた。時刻は19時。夏の時分では外は少し明るめだったが、表通りを車が通るたび、そのライトの強さに目がくらむ。加えて、少し上を見上げれば、ブランドやイベント、アーティストなどの広告がギラギラと眩しいのに、この店の周りだけはなぜか店じまいが早く、暗い雰囲気だ。このパティスリーも、店主が用意していた分がはけたら閉めると決めており、今日は思いのほか早く、その時間が来た、ということだった。
「はー、しんど。掃除より接客のが楽しいのに」
「望、お前がそれ言うか? シフト何回飛ばしてんだよ」
「だから、急用が入っちゃうんだって言ってるでしょ」
「だから毎月……はあ、もういい。さっさと掃除済ますぞ」
「ぶー」
 七伊は、立てかけていたモップを乱暴につかんで、力任せに床を磨き始めた。そもそも、彼がこうして閉店後も残っているのは、望が、店長から居残り掃除を命じられたからだった。勤務態度はいいのだが、シフト通りに働かず、その穴埋めもしようとしない彼女に腹を据えかねたのだ。そして、望をこの店に誘ったのは、長年の付き合いがあった七伊だったため、彼はその責任を感じて、自ら付き合うことを志願したのである。
「熱心だねー、お金ももらえないのに」
「……」
 望みはやる気なさそうに机をふき、椅子を上げていく。古びたデザインの家具で、この店のコンセプトにもなっている北欧からの輸入品だ。店長の個人的なつてで、この店を始める時に無料で貰って来たものらしい。昔のものだからか1つ1つが重く、こうやってイートインスペースを全て掃除するのは、中々に骨の折れる作業だった。
 七伊は最早、望みの言葉に返答するつもりはないらしい。とはいえ、怒っている様子もなかった。元々、この2人はこれくらいの言い合いを日常的にする仲で、周囲からは兄妹などと言われている。
 彼女は、彼の態度を見るや、話しかけることを諦めたらしい。実際、閉店後1時間を経っても、掃除すべき半分も終わっていない。このままでは、見たいドラマに遅れてしまう。彼女はドラマはリアタイ派だ。後からネットで見ればいいと友達にも言われるのだが、そういうのは損した気になるので嫌だった。世の中はなんでもお金。だから時間もお金だと望は信じている。

 1時間後……それぞれ、持ち場の掃除をあらかた終えたころ、七伊が望に尋ねる。
「……今日はなんで遅れたんだよ」
「あ……気になってた?」
「いや、いつも聞いてもいないのに話すのに、今日は黙ってるから」
「黙ってるってわけじゃないけどさ……」
 望は夜はこれからだと言わんばかりの街明かりを、窓越しから眺めた。わざとゆっくり椅子を戻しながら、考え事をするふりをする。七伊はそんな彼女を始めて見た気がした。そのため、ますます気になった。いつもなら、寝坊したとか、他のバイトがとか、友達と盛り上がっちゃってとか、それくらいの理由、すぐに言うのに。
「バイト増やしたって聞いたけど」
「えっ、誰から?」
 七伊は共通の友人の名前を告げた。望は悔しそうな表情を見せたので、彼はそれが事実だと分かった。しかし、そんなことこそ良くあることだ。別に秘密の1つや2つくらいはあるものと思っていたが、どんなバイトを始めたかを言わないなんてどういうことだろう。
「あいつも、なんか口ごもってたし、聞けなかったんだけど」
「あー、まあ、そうだね、確かに」
「何? いかがわしい系?」
 七伊は軽口のつもりでそう言った。掃除道具をしまい込み、振り返る。「そんなわけないでしょ」、そう言う彼女を期待していた。というより、そう返されるだろうと思っていた。
「あー……ちょっと、ね」
 予想に反し、望は俯いたまま、バツが悪そうにカウンターテーブルを拭いていた。マホガニーの見た目明るい色をした調度品で、これも古いものだったが、店の雰囲気の中心としてとても良く馴染んでいる。
「本当にそうなのかよ」
「いや、ちょっとわけがあって」
「どういう」
「お試し? っていうか、会うだけ。ご飯食べるだけのやつ」
「それって……」
 若い女性の間で流行っているというデート系のバイトだ。バイトというか、個人的に会って、デートの代わりにお金を貰うというもの。七伊の男友達が登録だけはしたというので、アプリでのやり取りを見せてもらったことがあったので、すんなり理解できた。
「じゃ、今日会って来たっていうのか?」
「そうだけど」
「はあ……いろんなバイトしてるとは思ったけど、とうとうそんなことまでやり始めたのかよ」
「別にいいじゃん、楽だし、稼ぎいいし」
「……次の約束とかもしてるんだろ、どうせ」
「……」
「どうなんだよ」
「まあ、そうだけど……てか、なんで怒られてるの、私」
 望は七伊をキッと睨みつける。彼はその視線を真っ向から受け止めたが、反発するつもりはなかった。ただ、どうしてだろうとは思い、言い淀んだ。彼の中に、確かに非難の感情はなかったはずだが、それは自分を騙しているだけかもしれないと思った。
「怒ってない。心配してるだけだって」
「……店長にも言われた、それ」
「え、店長に言ったの?」
「いや言ってないよ。言ったら辞めさせられるでしょ絶対」
 七伊は頷いた。ここの店長はそういうところがある。彼も、前日のフットサルの疲れを残したままバイトに顔を出したら、「男性もそういうの気にしなきゃダメ」と整体や、ナイトアロマなどの身体を整える系のアレコレを紹介されたことがある。
 「プライベートに入ってくるからね」
「そう。だからとりあえず、用があって遅れましたって言ったの。そしたら、今までのこととか色々話されて――」
 望は、うんざり、といった具合に捲し立てる。それを聞きながら、七伊は自業自得だと思っていた。彼女のこれまでの所業を考えると、あの店長に細々と話をされるのは容易に想像できた。
「で、最後に、怒ってるんじゃなくて心配してるんだって言われた」
「大人として当然のことだろ」
「まあ、そうかもだけど……べつに心配してもらわなくても、自分のことは自分でできるし」
「だから俺にも?」
「いや、七伊は心配してくれるのは分かってるよ? でもおおげさじゃん、結局。バイトと変わんないわけだし」
「でもなあ、変なトラブルとか多いって聞くし」
「周りで聞いててもそんなことないけどなあ、相手大人だし、優しいらしいよ」
 シンクの縁に台拭きをかけ、望は帰り支度のためにロッカー室へと向かった。
「てか、もう帰る。21時に間に合わない」
 いそいそと別室へ入っていく彼女の背中に声をかけ損ねた七伊は、掃除の済んだ店内に立ち尽くし、表通りを過ぎる車の音を聞いていた。近頃の車は音が静かで、よく耳を澄まさなければその音が聞こえることはない。彼は、望を止めるべきかどうか迷っていた。それは彼女が言うように、店長のそれとはまったく違う気持ちからのはずだったが、正直、ただ自分は望を思うようにしたいだけなのかもしれないと考えてしまう。本人が大したことがないというのなら、そうなのだろう。いくら兄妹などと言われていたって、結局は他人だ。それぞれの住む世界は違う。望の常識は、七伊の非常識で、逆もまた然りだった。
 そういうことがぐるぐると頭の中で回るうち、ロッカー室の扉が開いた。七伊は出てくる望を見ようとして、ふと、店の窓の外に、若い女性のグループが、こちらを覗き込んでいるのに気付いた。
 七伊は店を出た。彼に気づいた女性達が身構える。七伊は2時間ちょっと前に来た客にもしたように、ここがもう閉店することや、明日だすおすすめのことを告げる。
 そうしている内に、望は店を出て行ったようだった。
 女性達に頭を下げて振り返ると、路地の向こう、ギラギラとした広告に照らされて歩いて行く、望の姿を見た。

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