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地元の聖域

 「お腹が空いた」と感じることが多くなった。そう、彼は思っていた。午後、仕事の都合で都心を離れ、暇な時間に商店街をブラブラ歩く。今日の仕事は楽なものだった。まだ付き合いの浅い取引先の支社へ行き、簡単な会議に出て、そこでの意見をまとめるというもの。
 念のため1泊することになっていたが、彼は、取引先の飲みの誘いを断った。まだ、信用に足る相手かどうかが分からない。それを探るための仕事だと思っていたからだ。会議で良く発言する人間はいたが、今のところ、威勢がいいと思えるだけでしかなかった。彼は今回の会議の報告書を社内で検討し、その上で、付き合い方を考えていこうと思っていた。
 思ったよりも実りのない会議だったことにため息をつきながら、彼はそのモヤモヤした気分を晴らそうと、ホテルにほど近い商店街を訪れていた。

 喧騒は、彼の知っている喧騒ではなかった。その商店街はトラックが2台通れるくらいの道幅の、両脇に服や雑貨屋や肉屋や八百屋や、パチンコ店が立ち並ぶ良くある商店街だった。
 頭上にはオレンジ色の半透明の屋根がアーチになっており、差し込む光によって商店街の明るさを変えた。午後、日が陰ってくる現在は、その屋根は商店街の人々に褐色の影を投げかけている。しかし、その影はまばらだった。彼の知っている喧騒でないのは、この影が少ないのが原因だった。明らかに。

 影が少ないこと。それが、彼が、彼の知っている喧騒を、この商店街にはないと思った1つの理由だった。喧騒は人々の影によって作られる。それが密集して、商店街の中に様々な喧騒をもたらす。彼はそう思っていた。軽食でも取ろうと思っていたのだが、結局、コンビニに立ち寄ることになりそうだと思った。
 彼は視界の向こうに商店街の出口が見え、そこまで行ってから引き返そうと歩を進めた。
 行き過ぎていく店々は、このような時間でもシャッターが目立った。別に、この辺りの街は人口が少ないというわけではないはずだ。それに駅前には様々な年齢層の人もいた。だからここだけ突然、見回してみてもほとんど誰もいないような、そんな空間になるはずはなかった。

 しかし、それは事実として起こっていた。シャッターの降りた店は多く、まるで客を拒むかのように、商店街全体が重苦しく、開けているはずなのに閉鎖空間と化していた。喧騒は、それをより開けたものにするために必要なもののはずだ。新しい人々を呼び込むために、あるいは、既に利用している人々にまた来たいと思わせるために。
 しかし、この空間には影が少ない。たった今、彼が通り過ぎたコインランドリーも、十数台ある内の1つしか稼働していないようだった。もう少しでこの閑散とした(彼の記憶にある商店街の中では、という意味だが)商店街が終わる。その端まで来て、彼はくるりと振り返った。
「……?」
 ぽつぽつとまばらに人が散らばる商店街の景色に、1つ、彼は違和感を覚えた。それは、彼が、この商店街に対して、決めつけとも呼べる感想を描き、それに満足し、もう、変わることはないと思ってしまったからだ。
 違和感は、即ち、繁栄だった。
 視界の向こう、商店街の真ん中あたりの店に、煌々と灯りが灯っている。まだ夕方にもなっていない時間からすると、少々早い。それでも、灯りはここに降り注ぐ太陽の光に負けずに商店街の中でひときわ目立っていた。ここが、少し雰囲気の暗い商店街だとしても、あの店が明るく、そして活気があることに間違いがなかった。1人、2人と、彼があの場所に近づいて行く間にも、どこからともなく人々が店へ入っていく。
 確か、あそこには居酒屋があったはずだ。良くある、地酒を目玉にした、あまり広くない居酒屋。地元に務める会社員などに支持されている、出てくる料理にはそれほど特色はない飲み屋。
 そう思って、彼はその前を通り過ぎたはずだった。そしてその時は、そんなに活気があるようには思えなかった。そう考えながら彼は、店の前に立っていた。中から、確かに人々の声が聞こえる。彼ははっとした。その声の中に、今日の取引先の人間がいたのだ。会議でよく発言していたから、はっきりと分かる。聞き間違いではない。

 彼は居酒屋に入った。むっとした熱気と酒気とともに、いらっしゃいませの掛け声がやってくる。店員と目を合わせると、カウンター席に案内された。
 奥の方の座敷席が良く見える席だった。そしてそれは、彼にとって都合が良かった。確かに、向こうの席には、今日の会議に出ていた面々が酒を飲み交わしていた。まるで会議のことなど忘れ、楽しそうに。彼にとってはそれなりに問題の見られた会議だったが、向こうの面々にはどう感じたのか気になった。しかし、それを知るために同席することは彼には考えられなかった。彼は卵焼きと、ウーロン茶、から揚げ、それからいくつかの1品料理を頼んだ。
 彼は耳をそばだて、彼らが今日の何かしらの感想を述べないか知ろうとする。ああして同僚同士で飲んでいるのだし、ここは勝手知ったる地元の居酒屋だ。愚痴に乗せて、少しくらい話をするだろう。念のために1泊することになっていて本当に良かったと、彼は思った。少なくとも今日までの間はタイムリミットがないのだから。
 彼は、早々に目の前に置かれた、できたての玉子焼きを割りばしで2つにわけた。卵の匂いが湯気と共に鼻を湿らせる。更にひと口大の大きさに分け、ゆっくりと、彼はそれを味わうことにした。

 夜の帳が降りた。まだ、活気の衰えない居酒屋から出てきた彼は、輪をかけて人のいなくなった商店街を見回した。深呼吸し、彼はホテルへと帰るため、歩き出す。背中に、居酒屋からの笑い声が聞こえた。端的に言って、彼が聞きたいことは何ひとつ聞けなかった。それどころか、知りたくもない、恋愛や人間関係や、身内関係の情報、それから愚痴や今後の予定など、そういったものばかりが、居酒屋に渦巻いていたのだ。油断していた。商店街にあまり人がいないだけで、あの店には驚くほどの人々が来店し、そして出ていき、入れ替わっていった。それに応じて、この地元に住む人々の様々な人生の話が、彼の耳に寄せられていった。そのことを、彼は早々に受け止めきれなくなった。
 満たされた腹を抱えてホテルに戻る。ここでは、誰もが喋りたくて仕方がないのだ。空腹ではなく、コミュニケーションを求めて、生きているようなものだ。この商店街には、彼にとっては何もないに等しかったが、あの居酒屋がある。それだけでも、ここに人々がやって来る理由になっていた。

 もう、彼はお腹がいっぱいだった。見誤ったと思ったが、遅かった。この仕事はまだ続くし、担当者を外されることもそうないだろう。彼はいつか、あの取引先の人々とあの居酒屋で飲み会をすることになるだろうかと、気後れを感じながら、ホテルへと戻って行った。

 商店街には灯りが灯る。しかし、それは居酒屋の灯りには遠く及ばないような、か細いものに見えた。

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