休みの日のラジオコロッケ、そして昼の世界のスマホ

 斎藤椎実(しいみ)が休日に騙されたのは、もう何年も前のことだった。

 大手企業に新卒で入社し、厳しい先輩や理不尽なクライアントに付き合い、業績とスキルをめきめき伸ばしていった。3年が過ぎ、とある新規プロジェクトの責任者として大抜擢された椎実は、それを妬んだ同期と、彼らを崇拝する幾人かの後輩、そして色仕掛けや賄賂にほだされた上司達によって、あっさりはしごを外された。
 他の数社を巻き込み、会社の重要な転換点となるべきプロジェクトは足りない人員と、いつまでも到達しないクオリティ、そして伸び続ける納期によって破綻した。椎実は当然のように責任者としての責を問われ、流れるように、それまで一度もとったことのない休暇を取り、落ちるようにそのまま退社した。

 当時、彼女は週休2日で働いていた。しかしそれは嘘だった。椎実は文句も言わずに頑張ったが、週休1日もあったりなかったりする環境で、彼女はそれにすら裏切られたのだ。そして流れるようにとった長期休暇のせいで、彼女は退職を余儀なくされた。休日は嘘つきだ。そう思って、椎実はその日から、休日を作らないことにした。つまり、休みたくなるような人生を送るから裏切られるのだ。だったらはじめから、自由に生きればいい。

 椎実の「朝」は夜から始まる。同居人の弟(祐実、ゆうじ)は椎実ほどではないが忙しい会社人で、基本的には家の中で会うことはない。むしろ、椎実がいつもより早起きをして夕方頃に散歩に出ると、1度家に帰ってくるときの弟に出会うことのほうが多かった。
「夕飯一緒する?」
「何買ってきたの」
「惣菜系」
「コロッケある?」
 弟の手提げを漁る姉。そこに目当てのものを発見すると、にんまり笑った。今日は夜まで散歩を続ける予定だったが変更して、椎実は忙しい弟との食卓を囲むことにした。
 食事の場での話題は、いつも弟からだった。今日は会社でこういうことがあったとか、終わりそうもない仕事への愚痴とか、友達とか、彼女とか、そういう話。椎実にとって、弟の話はラジオだった。テレビCMと言ってもいい。それを聞くことで、今の世の中の出来事の最新を知れる気がした。彼女が知っている世間はもう何年も前のもので、そのギャップを未だに埋められている気がしない。むしろ開いている気さえした。椎実は家では寝ているか、在宅のデータ入力とゲームテスターの仕事をしているか、本を読んでいるか、それくらいしかない。しかし引きこもりにしては多いほうだと思うし、お金も稼いでいるし偉いはずだ。それに引きこもりと言っても、夜は外に出る。だから、椎実は夜の世界のことなら詳しくて、けれど、世の中は昼の世界が基本出回っているから、世間のことを何も知っていないのと、同じようなものだった。
「「ごちそうさま」」
 そろって手を合わせる。弟はこれからまた仕事へ向かわなければならないらしい。なんの業種かは、椎実は聞いていない。詳しく話すなと言ったからだ。けれど、弟から時折聞く愚痴からは、世間的な地位ばかり高くて、ろくな仕事でないのは予想ができた。
 身だしなみを整えている弟の背中。椎実は今日、夜の散歩を取りやめて、彼の買ってきたコロッケを食べたのだが、1つだけ不満があった。
「明日はかぼちゃコロッケ買ってきてほしい」
「またそれ? わかったよ。でも明日は家帰れないかも」
 それどころか、今日から数日は泊まり込みの可能性すらあると言うのだ。椎実は深々とため息をついて、今まで聞いてこなかったけれど、弟の詳しい予定を尋ねた。
「そんなにかぼちゃほしいの……?」
 弟は呆れた笑いを漏らす。それから予定を、玄関にある何年も使われていない予定表に書き込もうとして、ふと椎実を見る。
「というか面倒だから、スマホくらい買いなよ。それに送るから」
「携帯? 引きこもりの意味なくなるからやだ」
「いや、そうも言ってられないって。今の時代、引きこもりだって、ホームレスだって持ってるのに」
「むむ……」

 翌朝、久しぶりの太陽の光に痙攣するまぶたをなだめすかし、椎実は携帯電話ショップにやってきていた。あれこれとされる説明を受け流し、昨晩、大急ぎで弟に説明してもらった最低限の知識だけで、ショップ定員と戦う。まるで昔のハリウッド映画にでも出てきたような、近未来感漂うショップは、彼女にとってアウェイだった。
 彼女の想像していた「物を売る場所」の概念は、もはや現代には通用しないらしい。ショップだというのに商品がおいてあるスペースは最低限度で、広い空間そのものや、そこにあしらわれているデザインや色合いを楽しむかのようなこの場所は、見知ったものに囲まれ何年も景色の変わらない自分の部屋にいた椎実にとって、そわそわを通り越してゾワゾワするくらいだった。

「ありがとうございました!」
 そういうところだけは前時代的な、店の外まで出てきて頭を下げるショップ店員を振り切りつつ、椎実は片手に持った小さな画面の、つるりとした表面をなでた。別に知らないわけではない。彼女が働いていたときに、既にこれは普及していたものだし、もっと言えば、彼女が学生時代からずっとあったものだ。けれど、彼女自身は、勉学や仕事に忙しくて、買う必要がないと思っていたものでーー
「ーーん? 1回買ったことあったっけ……?」
 もはや思い出せないくらい印象は薄いが、確か、これも弟に言われて買ったことがあったかも知れない。多分、水没させて壊したのをきっかけにして、持つのをやめたのかも知れない。少なくとも、忙しかったキャリア時代は、社用のひと世代前の携帯電話で充分だったし、なんにせよ、個人でこういったものを扱うのは始めても同然だった。
「……そうだ、連絡連絡」
 小さな画面を親指で操作して、メッセージアプリを起動する。これは、予めインストールされているものですぐに立ち上がった。各種登録も済ませてある。椎実は弟にメッセージを送り、一段落した。
 久しぶりに見回す昼の世界は新鮮だった。新鮮どころか、鮮やかすぎてグロテスクに見えるほどだ。様々な写真や文字や色が、昼間の明るさに負けじと目に飛び込んでくる。こんなに多種多様のものが世の中には溢れかえっているのかと思う反面、道行く人々の中には、先ほど彼女が購入した小さな画面を熱心に見ている人もいることに気づく。確かに、これの中にも、多くのものがつまっていて飽きないどころか、それらを処理するのに時間がいくらあっても足りないくらいだった。操作の仕方をやっと思い出したくらいの椎実ですらそうなのだから、これを制限なく使える世間一般の人々は、なんと進歩した処理能力を持っているのだろう、情報に溺れはしないのだろううかと、感嘆するばかりである。

「ふう……ただいま」
 独りの家は落ち着く。椎実は、今日は湯船に浸かることに決めた。両手に持った荷物をどさりと下ろす。帰り道、本屋に寄ってきたのだ。新しい本がたくさんあった。今までも、たまに弟に買いに行ってもらっていたのだが、自分で選ぶとずいぶん違う。それがたとえ、新刊コーナーとかおすすめコーナーの本しか見て回っていないにしても。

 湯船にお湯がたまり切る前に、椎実は弟に言われたように、ネットニュースを見ておくことにした。案外、姉にあれこれ話をするのを面倒がっていたらしい。椎実に勝手にラジオにされていたことに気づいた弟は、多分、肩の荷を少しおろしたがっていたのだ。いつまでも外に出ない姉の背中を少しだけ押すことができた昨日。「スマホ買いに行けば?」の言葉に椎実が頷いた時、弟の安堵したような表情を、彼女は見逃さなかった。
 ボコボコとお風呂のお湯が入っていく音をBGMにネットのニュースを漁っていた椎実に、弟からメッセージが届いた。直近のスケジュールらしい。椎実は、画面上部に現れた通知をタップしようとして……しそこねた自分に、思わず笑う。

 かぼちゃコロッケがいつ手に入るのかはまた後で確認するとして、今は、このごちゃごちゃとした情報たちに。慣れることを優先しようと、椎実はスマホを操作し続けた。
 そうして、彼女の休日は、少しずつ変わっていくことになった。

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