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「山懐の男たち」 第1回 「更科源蔵」 正津勉

Ⅰ 原野

 更科源蔵さらしなげんぞう。ずっと気掛かりになっていた詩人である。だが読まないまま、どんなきっかけもなく、やり過ごしてきた。なぜもわけもない、いわゆる狭い首都下の現代詩に関わるのみ、だったからである。ところがじつは山に遊ぶようになって、それとうちから促すものがあって、ごくしぜんに手に取っているのだった。
 山と詩が会う。それはいつか二〇年前、平成一七(二〇〇五年)のことである。その夏、旭岳、トムラウシ山、十勝岳を踏破した。それぞれに特色があり素晴らしかった。なかでも遥かなる憧れの峰、大雪山の奥座敷、草花と水と岩の殿堂、トムラウシ山につよく魅された。
 トムラウシとは、アイヌ語で「花の多いところ」、「水垢が多いところ」の意だとか。巨岩が威し、奇岩が嗤う。その隙間を埋め尽くす可憐な花や草たち、様々な形状の大小の湖沼。まさに「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」である。チングルマ、エゾツガザクラ、ミネズオウ……。そしてまるで夢のようなイワウメの群。ふとわたしは山行に携えた文庫にあった詩人の作を思っていたのだ。「嚴しい北の」詩を。

かの峻嚴を父とし/貧しい地熱を母として/神は切り立つた鋭い絶點にも/五瓣の花をかかげる地の美を忘れぬ

彼が愛するのは/亜恒雪地の岩が根だ/そしてあの/最小定律の嚴しい北の天だ
「岩梅」

 更科源蔵、原野の詩人。明治三十七(一九〇四)年一月、川上郡弟子屈てしかが村字むらあざ熊牛くまうし原野の開拓農民(新潟県燕市佐渡より移住)の両親のもとに、九人兄弟の末子として生まれる。家は貧しくジャガイモを〈大きな米〉と呼んで主食とするような暮らしだった。弟子屈尋常小学校に入学、羆の出る往復十六キロの草深い道を通う。
「原野というものは、なんの変化もない至極平凡な風景である。/熊牛原野もそうであった。春になれば枯草の間から青草が萌え、夏は深い緑の上に陽が輝いたり、雨に濡れたり、風にそよいだり、秋になるとあたりがぜんぶ狐色にさび、そして間もなく雪や吹雪があたりを閉じ込めてしまう。私はそんな原野の片隅で生まれ、そこで育った」(「熊牛原野」『原野』法政大学出版局 一九八〇)。
 友達もいない幼児は、花や昆虫と語りあい、流れる雲や寄せる風に歌いかけ、アイヌの老婆の子守歌に夢をみて、根っからの自然児として育ってゆく。大正十(一九二一)年、上京し麻布獣医畜産学校(現、麻布大学)に入学。夏休み、姉ミヨの墓に咲く百日草の花を見て、初めて詩を書く。
「私の生まれた開墾地の片隅に、二本の唐松があり、その根元にはしどい、、、、の木〈野生のライラック〉を削って立てた、小さな杭があった。母も姉もそれを「ミヨの墓」といって、春になると、その小さな墓のまわりに、庭の花畑と同じ草花の種を播いて花で飾っていた。/生まれて間もなく死んだ、ミヨという私の姉の墓なのである」(「小さな墓」同前)。
 十二年、結核で吐血し休学。獣医学校を退学帰郷し、羊飼いをしながら病を養う。十四年、詩誌「抒情詩」に投稿し尾崎喜八選で詩入選。尾崎、のちに高村光太郎に私淑。昭和五(一九三〇)年、真壁仁、猪狩満直(参照・「山懐の女たち Ⅲ」吉野せい)らと詩誌「北緯五十度」創刊。屈斜路くつしやろコタンの屈斜路尋常小学校の代用教員になる。この間にアイヌ文化研究を始める。開拓農民とアイヌの現実を描いた、第一詩集『種薯』を刊行。

春だと言ふのに/古譚には冷たい風が吹いて/また雪が降る/限りなく雪が降る

今日 またあの空の下に住む/古譚の生活者達を思ふ/熊を屠り/鮭鱒を河川に漁つて/草圍ひの中の炎々と燃えさかる焚火の前に/暗いホンガメをアペウチカムイに捧げ/強い酒に酔ひ踊り狂ひ疲れ倒れて眠り/目覺めては暗い咀ごとを捧げてまた酒に酔ひしれる/あの原始な住民共を
「吹雪の古譚」

 六年、詩を通じて知り合った中嶋はなえと結婚。夏、当局からにらまれ、代用教員をクビになる(後述「Ⅱ アイヌ」)。詩「手紙―母へ―」に書く。「こないだ視察に来た視学に/修身のうそをそのまゝ教へないといつて首をきるとおどかされました」
 以後、蔬菜園芸、郷土玩具作り、印刷屋と転々する。十年、無産者共産党事件で検挙されるが不起訴。十二年、熊牛原野の開墾地で乳牛を飼い、炭焼きをする。十四年、妻が肺炎を患い急逝。翌年、長女を連れ札幌に転出。十八年、詩集『凍原の歌』を刊行(この集には十一篇の戦争詩も収まる)。これが厳しい北方を捉えて苦くも格別なる集なのだ。さきの「岩梅」もこれに収載される。

蝦夷榛に冬の陽があたる/凍原の上に青い影がのびる/蒼鷺は片脚を上げ/静かに目をとぢそして風をきく/風は葦を押して來て/又何処かへ去って行く
  …………
風は吹き過ぎる/季節は移る/だが蒼鷺は動かぬ/奥の底から魂が羽搏くまで/痩せほそり風にけづられ/許さぬ枯骨となり/凍つた青い影となり/動かぬ
「蒼鷺」

 いわずもがな詩の「蒼鷺」は詩人の姿でこそあろう。ところでその戦後はどうだろう。二十二年、札幌の出版社青磁社より全国的商業詩誌「至上律」を真壁と編集・創刊する(三十二年まで二十五号を出す)。地方で独力でこれだけの規模の活動をしつづけた。このことはもっと顕彰されるべきだろう。二十七年、詩集『無明』を刊行。この一集では戦中から戦後へと塞ぐばかりの暗くも佶屈した内面が吐露される。

泥炭濕地のモヤモヤの/酸っぱい夜をかき分けて/悠然と昇つてくるあの/あの 眞赤な満月は何なのか/そしてあの/満月を黙つてみてゐる私は何なのか
  …………
もつと もつと/もつと烈しい目に見えない/腐敗菌や病原體で/ボロボロに折れてくづれて/目にしむ底まで身を沈め/地熱に焦げて 解けて無くなる/月の光にとけてなくなる/その奥の/私よ 倒れた一本の枯葦よ
「泥炭濕地」

 みてのとおりもの狂おしい集なのであるこれが。ここに引かないが「コタン失明」「コタン慟哭」とタイトルする作もある。どこまでつづく泥濘よとでもいうほかない、どうしようもない難路をゆくしかないしだい。

天がだんだん冷く重く/地はビショビショに暗く暗く/それでも歩かなければならない/その先の先
  …………
そのねばつく暗さをかき分けかき分け/生きてゆくといふことは/然し他に道はない/天にも地にもこの道のほか
「暗い道」

「その先の先」へ歩を進める。そのようにこののちも詩人は詩作活動を展開しつづけやまないのだ。いっぽうこのころより滋味豊かなエッセイをものする。そのうち当方、愛読の幾冊か挙げると『旅の博物誌』(一九七〇)、『北海道・草原の歴史から』(一九七五)、『原野』(一九八〇)などなど。それにまた多く童話も書いてもいる。さらに研究書である。
 二十五年、『弟子屈町史』を編集・刊行を手始めに北海道史、アイヌ史研究にも業績を残す。道立図書館及びNHK札幌中央放送局嘱託になり、アイヌ伝統音楽の採取メンバーに加わり、全道各地のコタンを歩く。この分野は詩人のもっとも重要な仕事だ。その集成に『更科源蔵アイヌ関係著作集 全十巻』がある。だがとても手に負えなければ、これはまた機を待つべきか。四十二年、詩集「原野」を刊行。

白く凍った向こふから誰かやってくる/もう三十年も前とそっくりの恰好で/切株のやうにのろのろとしているが/ちょっとした仕草やくせで/直にそれが誰だか見当がつくのは/この凍った原野には野兎の数ほども/人間が住んでゐないのだからだ
  …………
陽がさすと雪を払ひおとした竹のやうに/しゃんと腰をのばして青空をあふぐ/あの暗い暗い時にも/朝は必ず東から明けると/あたりまえのことを信じ/焚火に手をかざしながら/白く凍った向ふから誰か/明るい話を持ってくるのを/首を長くして待ってゐるのである/この何もない凍った原野では
「凍る原野」

 この剛直さ、この泥臭さ。これらは中央の前線のそれでない、ぜったいに縁辺も北方のものである。そこでしか書きえない詩なのである。北方にあって最期のときまでコタンを見守ってきた詩人。ここまでみてきただけでもこの人がそう呼ばれるゆえんがよくわかろう。

 しまいにさきの、トムラウシ登山でのことを、ちょっとばかし。
 前夜トムラウシ温泉泊。一日目、南沼キャンプ地泊。翌朝露の山頂を目指す。頂上の眺望は壮大だ。ぐるっとぐるりの十勝連峰や日高山脈をのぞみのんびり。天人峡温泉への下山の途に就いたのが遅く午後三時近く。これから五時間半の長丁場だという。表大雪の連なる白雲岳、北海岳、間宮岳、旭岳を仰ぎ二時間余り。
 山の端が翳る。三十分もすれば日没。羆も動き出す。天人峡はまだまださき、三時間ももっとさき。押し黙ったまま、ずしりと荷が肩に食い込み脚は棒のようで、下を向きぱなし。いやもう疲労困憊へとへと。ひりつくほど喉もからから、ひとりごち、ぶつくさと下るのだった。こんな詩句を繰り返し幾度となく。このとき山と詩は一つだった。

夕ぐれだ/紫いろの夕昏だ/天上も紫にまた海のやうに廣くさびしい
  …………
夕の空を飛ぶ鳥は/望みなき魂のやうに地上に落ちて來る/鴫は悲しみの心抱いて落ちて來る/あまりに冷たく水のやうに澄んだ空のさびしさに/鴫は落ちて來る
「夕昏の鴫」


Ⅱアイヌ

 アイヌ=人間。アイヌとは、人間、の謂だ。更科源蔵、おそらくこの原野の人ほどアイヌととともに生きた詩人はいないだろう。生家は、熊牛原野は隣の家まで何キロも離れた掘っ立ての草小屋。そこは屈斜路湖畔と、山越えの虹別と、両コタンの間にあり「浮浪者の宿であると同時に、アイヌの定宿でもあった」(「コタンの人々」『原野』)。幼時、源蔵坊やはコタンの老婆が「ホロロロ、ロロロロ」と歌う子守唄に眠った。

眠りは静かな流れの波紋の上から湧くものでせうか/それとも春の土の上からたちのぼるものでせうか/ねむりの神さまよ/どうかこの子の揺籠シンタの傍にそっとおりて/夕空の彼方に連れて行って下さい(「子守唄」)

「その歌に私の目はとろけていった。少し魚の匂いのするねむりだった」と。そのように生まれつき繋がりは深くあった。
 昭和五年、この坊やが長じて二十六歳。屈斜路コタンの屈斜路尋常小学校の代用教員になる。ときに事件が惹起する。そこでアイヌ先住民に関わる蝦夷征伐の歪曲的記述を教えることを拒否して馘首されるのである。じつはこの事件をめぐって、後述の『コタン詩集』中の「コタンの学校抄」「続コタンの学校抄」「コタン挽歌抄」、などの詩群にくわしい。ここに一篇だけ引用する。

――先生、蝦夷ってどういう意味ですか/『弟橘姫』のところで突然ナン子にきかれて私はドキンとした/「蝦夷を平らげよとの命を奉じ……」と/ナン子の教科書にははっきりと書いてある
  …………
――そうだなァ といったが/答へのかわり私の目から無数の花火がとびちった
「蝦夷の意味」

 これをみるにつけ、ほんとに源蔵センセイがコタンの子供たちをどれほど可愛がったか、よくわかろう。だがしかしここでは本稿の性格からこのことに関わってはこれ以上に紙幅をさかないでおこう。
 ただこの事件を機になお、アイヌに学ばんと、アイヌを生きんと、つよく決意を固めるのだ。それは生涯を貫く信条となる。いまその成果は『更科源蔵アイヌ関係著作集 全十巻』(みやま書房 一九八一~八四)に結実している。以下、うちのアイヌ詩篇を集成する一巻『コタン詩集』(以下、『詩集』と略す)と、それとは別に評者が愛蔵する『歴史と民俗 アイヌ』(社会思想社 一九七三/以下、『史俗』と略す))と、これを中心にみてゆく。
『史俗』は、アイヌ文化を通覧する辞典的な一冊である。そこで本稿においてはうちの一章「自然」にかぎって参照しよう。まずその冒頭の「山川草木」の項が素晴らしい。
 山は父、山は母。「山に狩る人にとって山は単なる地表の隆起ではなくて、日常の糧である野獣を生み育てる母であり、この母の胸から流れ出る乳汁の水によって渇をいやし、時には向う見ずに獲物を追ったり、遠い沖合の漁に舟を漕ぎだした人の行方を心配して、その帰る村の方向を知らす父でもある。
 川は母の乳汁を運ぶだけでなく、鮭や鱒がもり上がって部落(コタン)にやってくる道であり、また山狩に出かけるときの案内人でもあり、山でとった獲物を村里へ運びさげる道でもあった」と。そして草木は「人間の危急のときに役立てよと、天神の命をうけて人間の日常のために天上から降ろされた存在」という。
 コタンでは人の営みと山川草木、鳥獣虫魚が深く繋がってある。このことをまずは胸にとどめられたし。でここでくわえて断っておきたい。ついてはこれは「山に狩る人」が護りとするばかりか、いわずもがなわたしたち山に遊ぶ者も心すべきことだと。
 どんなものであろう、わたしたちは山を「単なる地表の隆起」と見なしてよしと、しているのではないか。そうしてそんな地表の隆起をただもうただ上下するごときを登山と錯覚しているのでは。
 山は父であり、山は母である。さらにはその源たる神であることわり。たとえば日高山脈の幌(ポロ)尻(シリ)岳は「……、路(ルベシ)の登(チシ)っている上(ア)に(オラン)お(ケ)ろされた神(カムイ)、弓(クラ)お(ンケ)ろしの奥方(マツ)」と尊称され、杯(トゥキ)や木(イ)幣(ナウ)をあげて敬拝される山だという。
 アイヌではひろく、山は神(カムイ)岳(シリ)または神山(カムイヌプリ)と崇め、たてまつられた。「神(カムイ)とは熊を含む野獣をさすもので、日本流では獲物の多い山の意味」であるが「山はどこまでも神々の国であり砦なのである」と。源蔵は、かくしてアイヌの古老から山の尊さと山に向かう姿勢を教えこまれたのである。
 熊(カムイ)。それでは山にはどんな掟があるか。「山に狩る人」にはいっとう大切なのはやはり山の主の熊であるだろう。『詩集』所収のコタンの古老に材を採った「古老譚」(昭和四十年代 未刊)。まずこの集から詩「カムイマ老人」をみたい。

熊は何頭とったか忘れたといった/あれは神様カムイだから決して悪口いうもんでない
  …………
悪口なんていうと皆わかるんだと/私をたしなめたのも彼だった/熊は死んでもカムイは死なないのだともいった

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