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推しやファンへの思いについて考える~成功したオタク~

 今、誰かのファンだったり推しがいたりするだろうか。
 今いないとしても、人生の中で一度はそういう気持ちになったことってきっとあるよね。
 
 元々は、自分の推しやファンについて人に話すのが苦手だった。過去のそんな自分を忘れそうになるほど、今は友人たちに話す。ここnoteで、マーベルの何推しだの、俳優の誰それが可愛いだの、アニメの誰が好きだの書いてしまえる環境についても、とても幸せだと思う。

 若い頃は、その思いの強さを知られるのが耐えがたい恥ずかしさ。「そういう好みなのか」と知られるのも。
 誰かを好きと思う気持ちって、すごく個人的で大切な気持ち。友達が言っていたからとか、誰かに教えてもらってとかではないものね。何かをきっかけに好きになったり、好きと気付いたりして、それはほぼ恋なのだよね。
 私の場合は、キュンキュンして身もだえしたかったり、ほわんと良い気分になったり、ギューンて頭に血が集まりそうな気分になったりはあるけど、特にドキドキするわけじゃないのが、恋とは決定的にちがうなあー。きっとその辺は人それぞれなのかなって想像している。
 あと身近な恋と違うのは、ほとんどが相手に認識されていなくて、これからもずっと一方的だと自分でわかっていることだな。

 その誰かについて語る時、「オタクっぽい」と笑われてしまうことがある。その言葉と伝え方に、私は否定的な気持ちを感じないし、自分自身に対してもそう。
 元々、喋るのがゆっくりだから、興奮した時と差があるのかもしれない。早口とまではいかなくても伝えたい情報が多くて止まらない。どうしても熱量がもれ出てしまう。
 それに趣味の話をしやすい相手だとか、気を許している相手だから、止まらなくても良いやとちょっと思っている。聞いてくれる人に甘えている自覚はある。

 最近は「オタク」という言葉は、ポジティブなイメージで使われるようになった。


 本当は、「成功したオタク」というタイトルが、少しだけピンと来ていない。
 その韓国語「ファンダム」を和訳すると「オタク」という言葉になるらしいけど、韓国では「オタク」をどのように定義しているのかなあって。「ファン」とか「推し」がいる人はオタクなのだろうか。日本でも区別されているのかわからない。韓国では、その辺の言葉の感覚が少しちがうかもしれないし。日常の文化や芸能界の文化もちがうのだろうし。

 それを意識はしつつ、言葉のニュアンスは今回は横に置いといて。

 推しがいる経験があれば、共感できる部分が多かった。


 このドキュメンタリー映画を撮ったオ・セヨン監督は、25歳の超若手。
 以前推しがいて、その推しに自分を認識されていた。

 韓国では自分の推しに会い、推しからも自分の存在を認識されることを「成功した」と見られるそうだ。握手会などファンイベントで存在を認知されるような感じ。
 彼女はどうにか認識してもらおうと努力もしている。

 近づける人を羨ましい、憧れると思う心情も理解できなくはないけど、私は推しに近づきたくない方だな。恥ずかしすぎて動けなくなるだろうし、顔だってひきつるだろうし、何も話せなくなるだろう。相手が自分を認識したところで、どういう人と思われるかなんて考えるだけで怖すぎる。私はできるだけ、その他大勢のファンとして埋もれていたいから、「成功した」くはないな!

 いずれにしてもだ。

 自分の推しが性犯罪関連の事件でつかまったら誰だって冷静ではいられないよね。

 
 「そんな人だったの?」 
 そういう失望や驚きまでなら、ある程度の人が経験ある心情かもしれない。

 今までの自分の推し活はなんだったの。活動まではしていなかったとしても、それまで抱いていた推しへの気持ちが放り出されてしまう。
 
 そして彼女は、それぞれに推しがいて何かしらで失望した人たちにインタビューを始める。

 
 私も彼女たちの気持ちを知っている。
 好きな音楽を歌うミュージシャンが逮捕されたことがある。別のミュージシャンでも、振る舞いや言動を非難されること。
 面白いと思っていたお笑い芸人がしくじること。批判の的になること。
 他の人も。過去の言葉も掘り起こされてくる。
 見過ごせない言葉ややらかしてきた出来事におどろき。あきれ。
 特に最近だと、炎上して批判の的になるなんて、しょっちゅう。あちこちで見られる。

 噂かつくり上げられたものか真実かわからないものに関しては騒がないとしても、ある程度事実だとわかったら。残念に思うこともある。
 それでイヤにはなれなかったり、さすがにイヤになったり。応援していた自分を省みたり。なんとなくどこかで知っていたけど見て見ぬふりをしてきたこれまでを省みたり。衝撃が強すぎると生活に影響を及ぼすこともある。

 そして、いったいどこまでを自分の中で否定するだろう。
 その人のどこまでを。自分のどこまでを。
 すべてを否定することは、応援していた自分のそれまでをも否定することになってしまう。ゆるされることではない場合でも、その行動だけ? いや顔も見たくない?

 その気持ちや判断は、やっぱりそれぞれ個人的で大切なものなんじゃないかなあと思う。

 さんざんな気持ちになっても、どうしてもその作品が嫌いにはなれない場合もある。
 その時代にくり返し聴いたり。
 何となくでも歌ったり。
 笑ったり。
 ストーリーを愛していたり。
 キュンとしたりの記憶が強烈に残っていたりする。
 
 わいてくる複雑にからまった気持ち。
 
 そしてそのからまった気持ちを解きながら、自分がその人の何をどこまで知っているのかとも思う。
 知っているわけがないじゃないか。

 私たちはその人のどの面を見て、何を好きになったり応援したいと思ったりするのだろう。

近年、韓国ではアイドルを労働者と見た場合、サービス業なのかアーティストなのかの論争が巻き起こりました。彼らは音楽や演技などの表現活動をしながらもサービス業に従事するものとしての役割を求められます。
(中略)
韓国のファンダム文化ではこうした状況に対して“変化をもたらさなければいけない”という意識が生まれつつあります

日本の舞台挨拶でのオ・セヨン監督の言葉から
Cinem@rtの記事より

 事件と、自分の気持ちの揺れにしっかりと向き合い、たくさんの人に何度も根気よくインタビューして回った彼女の言葉には重みがある。

 インタビューをされた人たちの言葉に自分を見る。この中の誰に考えが近いかなと思いながら、その気持ちを想像する。
 日常を暮らす彼女たちの、頭にあることを聞きながら、自分の知る有名人やスター、推し、SNSについて考えさせられた映画だった。



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