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言葉を交わすために必要なこと~僕らの世界が交わるまで~

 親というものは、子供というものは、どうしてああなのか。
 自分が親の立場を思い、子供の立場を思う。

 親として、こうした方が良いよあなたのために、なんてできるだけ言いたくないし、言わないように気をつけてきた。何故なら親に「あなたのためを思って」と何度か言われてそれはもう大変な反発心を持った経験があるから。直接言われなくても気持ちが伝わってきただけで、人に自分の行く先を勝手に決められているみたい。「もうやめて自分で判断させて失敗させて」と苦しい思いでいっぱいになること、この上なかった。私が特別そうなのか、甘えなのか、人の指図を感じるのが本当にイヤだと今も思う。
 自分で決めたい。遠回りでも時間かかっても失敗したと悲しくなっても葛藤で辛くても。
 きっと多くの人がそんなもんなのだ。この前観た映画「僕らの世界が交わるまで」で、改めてそう思う。

 わかっているから息子には、社会的にやってはいけないこと以外は、したいようにどうぞ失敗や遠回りをして下さいと思っているはずなのに。
 本当は心配だから、こうすれば良いのに、ああしたら良いのよと先回りしたくなってしまう。
 そしてその気持ちは、ついもれてしまう。
 子供側の気持ちも、こちらにすぐ伝わる。ああうっとうしいんだなって。
 お互いに頑張って抑えていたって、やっぱりお互いにもれてしまう。残念ながらそんなものなのだ。

 時には人にもそんな気持ちを向けてしまう。
 余計なお世話は押しつけがましくなり、距離を取られる。
 そんな空回りを自分で痛々しいと思う。


*ストーリーとは関係ないけれど多少はネタバレあります


 母親のエブリンは、自分でもうっすら気づいている。でもやめられない。息子の人生や好みを受け入れられず、こうした方が良い、あれはやめた方が良いとついつい口出しし、うっとうしがられる。そして息子の本当の気持ちを聞かずにいるくせに我慢もする。
 二人の間に意思の疎通は見られない。相手の気持ちを聞く努力もしない。目の前の言動にだけ口出しをし、うまくかないからと自分の気持ちを我慢する。

 母親は息子に向けられない気持ちを、今度は他の人に向けられると勘違いして、勝手に先回りして世話を焼き過ぎてしまう。それはそれはうっとうしいほどに。
 他人の優しさにつけこんで、自分の気持ちを押し付ける彼女はもう優しさでも何でもないよね。途中からもうストーカーやんとすら言いたくなる。ダンナさんにウソをついてまで張りきるその姿は哀れだ。別に本当のこと言ったって良いのに、やっぱりどこかやり過ぎな自分に気づいていて後ろめたいのだろうか。

 母親側として観ていたはずの私なのに、途中から気が付いたら子供側の気持ちになっていた。

 相手を失望させないために、できるだけ大人の気持ちを損なわないために、イヤな態度も見せずに「ありがとう」と気持ちを受け取ろうとする。
 そうじゃないと見放されてしまうかもしれない。保護の下で相手の機嫌を損なってはいけないかもしれない。
 そうやって気を使っていると、大人の側にグイグイ来られて、真実の気持ちはどんどん明かせなくなっていく。本当は自分の世界だってちゃんとあるのに。

 観ていても、相手の意見や気持ちに耳を傾けてあげてよ、もううるさいからやめて! と苦しくイライラが積もっていく。
 映画を観終わってから「あのお母さん、嫌いになってしまいそうだった」と言うと夫が笑っていた。
 あの感覚、きっとみんな知っている。

 そして「自分の気持ちをただ押し付けてきた」と互いに気づく時がやってくるのは、自分が気に入られたい相手に、ハッキリと拒絶されて傷ついた時。良かれと思っていた言動は、自分の気持ちの満足でしかない。
 自分の欲求ばかり主張するんじゃなくてさ。相手の言葉に耳を傾けた時、ようやく気持ちが通じ合う。相手の気持ちを想像してからが会話の始まりなんだ。

 最初からずっと「人の声」「言葉のかけ方やタイミング」が、テーマになっているように感じた。
 その人の都合で唐突に言葉をかけてきたら、誰だってびっくりするよね。




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