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乱暴なシェアじゃなくて、丁寧な住み分け?【LGBTQについて考えた】

とてもセンシティブな話題な気がして、どうにも自由に議論することが出来ない。

私もたぶん、サイレントマジョリティーなのだ。

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LGBTQ問題について、しばしば考えることがある。

私は、生まれた時から女であることに疑問もなく、女として嫌な目にもあいながらも生きてきた人間だけど、だからこそLGBTQについてはしっかり向き合いたいと思っていた。

ただ、最初に言うけど、たぶん一生”理解”はできないと思う。

それは、単に性自認の問題ではなく、基本的に他人のことを100%理解するなんて無理だと思っているし、それは、性別、年齢、文化、国籍、環境などが違ってくるほどにより容易ではなくなると考えているから。

ただ、共に生きることは出来る。というか、生きねば。

そうは思う。
だから、誰かが理不尽に虐げられるような状況は出来る限りなくしていかなければならない。

そんななか、たまたま流れてきた動画を見た。

いま、私たちの世の中に起こっている課題が、めちゃくちゃ噛み砕かれた感じの対談になっていて、「本当そうだよね」と思うところも多かったので、興味がある人はぜひ観てみてほしい。

私個人としては、男女の結婚と同等の権利を持つ同性婚は認めてほしいと思っているし、性転換や性自認も個人の自由でいいと思っている。

私は、「私は女に生まれて女として生きていく」なんて宣言も覚悟もしたことが無いけど、改めて問われればこう答えるだろうし、それくらいの感覚で、その回答が人によってバラバラだったからってなにも問題ない。

もっと単純に言えば、何も困らない。

もし挙げるとするなら、私が好いた男性の恋愛対象が女性じゃなかった時に、残念に思うくらいだろうか。

ただ、トイレや入浴施設、更衣室などの複数人で利用する場や、スポーツなど身体的能力差が著しい条件下においては、生物学的・身体的男女という概念に基づいた区別は絶対に必要だと主張したい。

私は女性なので、女性の立場として思うことを言う。

「身体が男性でも、心は女性である」という人はいる。もちろん、いていい。
性自認においては、それがなんであろうと、誰もが存在していい。

「心は女なのに、男性トイレや男湯に入らなければならないのは苦しい」
想像しただけでわかる。真に理解できなくても、その状況を自分に置き換えて、辛さに寄り添うことはできる。

一方で、私は女性トイレや女湯に見た目が男性の人がいたら、ものすごく怖いし、ものすごく苦痛に感じる。
心が女性であろうと、どんなに優しい人であろうと、たとえイケメンであろうと、”体が男性である”だけで、その人の内面なんかどうでもよくて、ただただとても怖いのだ。

男性という生き物に対する恐れもあると思う。力では敵わないという意味でも。

ただ、もっと突き詰めると”女性用とされる場に男性がいる”という状況に対する恐怖だ。

なんでこの人は女性用とされる場にいるのだろう?
心は女性なのだろうか?でもそんなの確かめようがない。
シンプルに男性だとしたらなんの目的で?
どうしたらいいんだろう。でもよくわからないというのは気味が悪いな。
よくわからない人が存在している空間は怖いな。やだな。

という感じだろうか。

性別が、というよりも、”いるはずのない人がいる”という状況だ。
それは、まるで幽霊のようで、その幽霊に悪意があるのか、恨みがあるのか、それともうっかり現れたゴキゲンなオバケなのかはわからない。

「え、ちょ、これみんなにも見えている?私だけ?え?誰がおかしいの?私?」という戸惑いと混乱。

勘違いしないでほしいのは、男性やLGBTQの方々を、お化けのようなモノと言いたいのではないよ。まさかね、そんな誤解する人いないよね。
そうじゃなくて、どうか社会は、政治は、心身ともに男性として、女性として生きている人たちの気持ちも忘れないでほしい。

もちろんこれは私個人の主張で、自分勝手な部分や至らない部分もおおいにあると思う。
私もまだまだ勉強不足、知識不足だ。

ただ、主張しなければならない時は、それが誰かの意見に沿わなくても、お叱りを受けることになったとしても、私に守りたいものがある限りは主張できる大人でありたいと思う。
間違ったと思ったら、その都度直していける人生と社会でありたいと願う。

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みんなで生きていく社会のためには、まずはみんなが自分の意見や考えを言えるようになることが大切。
誰かが誰かの口をふさいだり、聞こえないふりをしたりすることがないように。

『もののけ姫』でも、サンは森で、アシタカは村で共に生きると決めたように、森に住みたい人を無理やり人里に引っ張り出してくるようなやり方じゃなくて、それぞれが住みよい場所をみつけて、そこで自由に生きる選択ができる社会というのが大事なんじゃないだろうか。

少数派を森に追いやろうとかじゃなくてさ。そんな単純な図式じゃなくて。

サンがエボシの村で「これからは全員森のルールで生きろ!」と主張したってうまくいかないし、アシタカだって、山の住人と村の住人を同じ環境で同じ文化にまとめることは望んでいないはずだ。

共存というのは、乱暴なシェアじゃなくて、丁寧な住み分けという方が、もしかしたら感覚的に近いのかな、とこの頃は思っている。

住み分けってのも、誤解を生むかな。言葉選びって本当に難しいね。
どうか、地球上の1つの意見として、ゆるやかに受け止めてくれると幸いです。

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