画家Kの自伝 第一章
短いようで長い旅を歩んできた。
自分は、この原稿を書いている現在、五十三歳で、今回、自分の拙い半生、短いようで長いような旅路を、ここで一旦立ち止まって振り返って書いてみようと思う。
まず、大学時代の話、続いて、自然食マクロビオティックにはまったこと、人生の最初の師匠との出会い、精神を患ったこと、復学、名古屋での生活、ギャラリー運営を始めた頃 、結婚、サイババとの出会い、再発、K.Art Studio、現在の生活と半生を振り返って思う事、順を追って書いていきたい。
自分の半生での、一番の事件は、精神を患った事だろうと思う。
病気を持つことで、自分の生き方が決定づけられたのだと思う。
また、病気のハンディのおかげで、人生がより深くなったとも思う。
そして、その影響で、さまざまな神秘的体験をしたこと。病気を抱えての現在の生活を書き進めていこうと思う。
また、この自分の半生を振り返って執筆することで、自分の人生を見つめ直し、また読者の皆様に、自分の赤裸々な告白を読んでいただき、何かしら感じていただけたらと思っている。
今回の執筆を、自分を導き、自分の病気との闘いを支えて励ましてくれた、
いまは施設にいる母と、いつも励ましてくれる妻に、捧げたいと思っている。
大学時代
上京
大学時代からのことから振り返ってみようと思う。自分は、東京の小平市の美大に一年浪人して合格し、名古屋から上京した。
当時の予備校の先生から、小平市小川町の不動産屋さんを紹介いただき玉川上水の近くにある「上水桜荘」というアパートに居を決めて、入居手続き、入学手続きなどをして、一旦名古屋に戻った。
自分は、男三人兄弟の次男坊で、兄は法律関係の仕事、弟はサラリーマンと、僕だけが名古屋の美大教諭の父の影響で、美大を志した。
体育などの運動神経はさっぱりだったが、元々、幼い頃から絵画造形が好きで、美術図工は、小学校、中学校と、いつも通知表の評価が高かった。
上水桜荘に居を決めたあと、名古屋から、芸大出の名古屋の美大予備校の講師で、先輩でもある北村さんの運転するトラックに乗っての上京であった。
同じ東京行きの予備校仲間と、生活用品をトラックの荷台に乗せての上京。これから始まる、学生生活に心躍らせての上京だった。
北村さんのトラックで、生活用品と自分を上水桜荘まで届けてもらい、東京での一人暮らしが始まった。
中央線、小平市
僕が、学生生活を始めた小平市は、自分の通うことになった武蔵野美術大学をはじめ、一橋学園、津田塾大学、創価大学、朝鮮大学校と、大学が沢山ある学園都市であった。
自分は、同じ小平市ではあるが武蔵美から少し離れた、一橋学園という地区のアパートにて学生生活をスタートした。
「上水桜荘」は、武蔵美(以下ムサビ)の近くを流れている「玉川上水」沿いにあり、アパートの近くには、自動車教習所と幼稚園、ボウリング場等があった。玉川上水と言ったら、文豪太宰治が恋人と入水自殺したことで有名な上水である。
小平市といっても、東京のどの辺りか読者の方でわからない人もいるかと思うが、新宿を通る中央線を八王子方面に三十分くらい乗った国分寺駅を下車し、国分寺から北に繋がる、西武多摩湖線に乗り換え一~ニ駅乗って下車した街が小平市の一橋学園駅である。簡単にいうと、
新宿からちょっと離れた西側に位置するのが小平市である。
小平市は、都心と違って、農地や緑の多い、東京とはいえど、自然豊かな都市である。
ここで、中央線沿線で僕の大学生活の舞台となった駅を挙げてみると、荻久保駅、吉祥寺駅、国分寺駅、国立駅、八王子駅、といったところだろうか?
吉祥寺駅は、駅に丸井デパートがあり、北口は商店街が栄え、南口は井の頭公園があり、僕の青春時代の舞台の一つである。
また、有名なライブハウスもあり、何度か通った。
国分寺には、やはり丸井があり、また古着屋や、オーガニックレストラン、古道具屋さんなど魅力ある店がたくさんあった。また、大学時代、軽音楽部に所属していた時期があり、僕たちが通って練習した音楽スタジオなどもあった。
国立は、一橋大学があり、無農薬の八百屋さん、オーガニックレストラン、ベジタリアンの中華料理屋さん、古道具屋さん、古本屋、可愛らしいカフェ等こちらも夢のある店がたくさんあり、良く通った街である。
また、あの忌野清志郎さんの故郷でもあり、RCサクセションの歌に出てくる「たまらん坂」も良く通った。このたまらん坂を下ってすぐの自然食八百屋さんに東京生活後半にアルバイトすることになる。他に、山口百恵さんと三浦友和さんの邸宅も国立にある。
八王子には、東京造形大学があり、美大予備校時代の友がたくさん在学していて、何度も小平から八王子に通った。
特に、学園祭時期は、ムサビ、多摩美、造形大学をスクーターでハシゴして廻ったのが懐かしい。
学生生活スタート!
さて、いよいよ学生生活の始まりだが、僕は、油絵科に所属していた。全国から美術家を目指す人間が集まり、しかも初対面という事で、教室に集った新入生は、それぞれドキドキしながらの顔合わせだった気がする。
そして、この出会いが、将来の人生の友との出会いの始まりで、今振り返っても、東京での学生生活での最大の収穫は、全国から集まった友との出会いだったと振り返っている。
こう考えると、現在のコロナ禍で、キャンパスライフのない、遠隔授業の大学生は、少し気の毒に思う。出会い、キャンパスライフこそ大学時代の醍醐味なのに、、
緊張していた学生同士も、居酒屋等での飲み会などで、少しずつ打ち解けあい、お互いのアパートを行き来する仲間となっていった。
受験で苦しんだ分、僕らは、学生生活を大いに楽しんだ。
また、大学時代の楽しみは、なんといってもサークル活動と学校祭(芸祭)だった。
自分は、「ロックバンド」に憧れ、同じ油絵科の友と、軽音楽部に所属希望した。
僕のパートはドラムで、一からの練習だった。
ドラム練習は独学で、最初は、エイトビートのみの練習から入った。
当時、レッドウォーリアーズのカバーを練習曲としてベース、ボーカル、ギター、ドラムを合わせた練習をした。
自分も、アパートに、ラバーパッドの、あまり大きな音の出ないドラム練習器を購入して自宅練習に励んだがアパートのニ階だったので、しばしば一階の住人からクレームが来る始末であった。
軽音楽部では、定期的に、広い教室で、普段の練習の発表会、ライブがあり、小心者の自分は、とても緊張して、上手く演奏できない時もしばしばあった。また、軽音の先輩のドラミングテクニックを見るにつけ、自分の力不足を感じ、しばしば落ち込むこともあった。
また、やはり運動音痴と同じで、リズム感も悪く、練習中、ギターの下田くんが演奏を途中でを止め、「ビートが裏返ってる、やめよやめよ、、」と言われた時は落ち込んだ。
また、ボーカルの一年年下の佐藤には、「Kさん、もう少し自信ありげに叩きなよ!」といわれてしまい、ニ年生まで続けたドラムだったが、自分に音楽的才能がないのを悟り、ニ年で脱退してしまった。
芸祭(芸術祭)
先程も書いたが、美大生活の最大の楽しみは「芸祭」にある。
芸祭実行委員会が半年以上前から準備して、美大ならではの、美大生の作る本格的屋台が並び、ゲイバーあり、ライブハウスあり、体育館ではディスコあり。また、なんといっても芸祭の楽しみは、本格的プロのミュージシャンのライブである。僕らが現役の頃は、東京スカパラダイスオーケストラのライブがあった。また、他の美大とも、日程が重なるので、それぞれの美大生が行き来するのも楽しみの一つであった。
当時は、芸祭で飲酒の規制も緩く、屋台で呑み明かしたり、女子学生も、タバコを吸う子も多かった。また、バイクを乗る女の子も、美大では珍しくなかった。
学生なので、車を持っている学生より、バイク、スクーターでの移動がメインで、自分も、多摩美とか造形大学にはスクーターで往来した。
他の学校では、フライングキッズや大江慎也など大物ミュージシャンのライブも観られて楽しかった。
当事は、伝説の番組、「イカすバンド天国」が毎週放映され、バンドブーム真只中だった。三宅裕司と相原勇が司会で、たま、ブランキージェットシティー、フライングキッズ等を世に出した伝説の番組である。
軽音の先輩は、ぴちぴちのスリムのブラックジーンズに、ラバーソールと言ったパンクスタイルで洒落込み、当時トンがってた学生は、「宝島」など読んで情報共有していた。
先輩の話では、昔のムサビの芸祭は、ムサビの近辺の町、鷹の台の駅からムサビまで神輿をだして、裸になる学生もいたとか?!また、芸祭の翌日は、学校の敷地内に、使い捨てたコンドームが落ちてたという。
ムサビ時代のバイト
ムサビ時代は、やはり仕送りだけでは足らず、いろいろなアルバイトを経験した。
寿司屋でのバイト、造形屋でのバイト、イラストのバイト、八百屋でのバイト、喫茶店でのバイトなどなど。
一番長く勤めたのが喫茶店でのバイトである。自分のアパートからスクーターで五日市街道を東に向かい、三十分くらいのところにある、洋館のような佇まいの喫茶店「珈琲館もみの木」である。
当時は、ネットなどなく、アルバイト雑誌から一番楽で楽しそうなのを選んで「珈琲館もみの木」を選んだ。
実際、仕事に入ると、ホールでの仕事で、五十品目位あるメニューを覚えたり、コヒーのサイフォンでの淹れ方を覚えたり、サンドイッチの作り方を何種類も覚えたり、それはそれは大変な仕事だった。
忙しい時は、戦場のような職場であった。オーダーも、忙しいときは一度にたくさん入ることもしばしばで、伝票が十枚以上並ぶるのはザラで、ホールのポジションが、トップ、セカンド、サードと別れていて、ウェイトレスが持ってきた伝票を、トップの人が「オーダーお願いします、五卓のお客様、ワンカフェオレ、ツーガテマラ、フォーミックスサンド、ワンフルーツパフェお願いします!」というと、セカンドでミックスサンド、フルーツパフェを作り、サードで、コーヒーを淹れてと、大変な仕事で、今思うと、若かったからできた仕事だったと思う。
あと、寿司屋でのバイトは、同級生の大下くんや、バンド仲間の関くんとかと入った。大将独りの個人経営の寿司屋で、こちらは、暇な時は漫画を読んだり、夕食どきになると、大将が握った寿司を軽自動車で出前先に運んだり、店の奥にいる時は米を研いだりと、割とのんびりして家庭的な仕事場だった。また、大将も独身だったので、一日の終わりには、向えのスーパーで食材を買ってきて、夕食を作るのも大事な仕事だった。また、大将と、出前先のガソリンスタンドの兄ちゃんと、バイト仲間でスキーに行ったりもした。他には、仕事後、車に乗せてもらい、大将のおごりで大型銭湯に連れていってもらったりした。これは、学生時代のいい思い出である。他にも、いろいろバイトしたが、ここでは一旦割愛させていただく。
学生生活
美大授業は、実技は、最初のニ年、石膏デッサン、静物デッサン、人物油彩、自画像等、アカデミックな課題で、学科は西洋美術史概論、日本美術史概論、とか哲学とか生物学とか。また、語学は、自分はドイツ語を習学した。
学科授業は、それほど熱心に勉強せず、遊んでばかりいたが、美術作家となった今は、是非もう一度受けたい授業ばかりである。美術家として、最低知っておかなければならない基礎知識の授業ばかりである。
油絵科は、一学年全員で百二十名ほど在学していて、四クラス〜六クラスに分かれていた。僕は、Bクラスで、教室が、Aクラスとも近く、気の合う仲間同士で男女合わせて十〜十五人くらいのグループができた。
グループの仲間は、それぞれのアパートに集まり、大学で初めて呑んだウイスキーの水割りとかを明け方まで、どうでもいい話をして夜な夜な飲み明かすことが多かった。
学校のある日は、昼頃学校に行き、学食に向かい、親しい友人とランチをしながら、ダラダラと、世間話をして過ごしたり、タバコを吸ったり、売店でお菓子を買って食べたり、あまり健康的な生活習慣ではなかった。また、学食には、各テーブルに、缶の灰皿がおいてあり、一階のカフェがあるところにタバコの自販機が設置してあったように記憶している。今では考えられないことである。
恋愛
美大時代は、僕も若く、沢山の恋をした。まず、クラスの飲み会で、野呂さんに気に入られ、しきりに抜け駆けを誘惑されたが、ウブだった自分は、最後まで断った。野呂さんが、自分のタイプでなかったのもあるが、後から同級生に「タダマンはヤっとくべき」と言われた。が、あのまま誘いに乗っていたら、今どうなっているかわからない、とも思う。
次に、同じグループだった川崎さんと馬が合い、会えばいつも冗談を言い合う仲で、同じバイトに行ったりし、いつしか恋心を抱くようになり、しばらくして告白した。川崎さんにとって僕は、ただの気の合う友達、と言った感じで恋心は全くなかったらしく、ムサビのカフェで振られてしまった。他には、ムサビには「風月」という古い建物の学食があり、そこで僕らはいつもダべってたのだが、いつも目が合うデザイン科の女の子がいて、やはり片思いがはじまった。よく目があって、まんざらでもないと思って、もしかしてあの子も自分に気があるかも?!と思ったりした。たまたま体育館の方から彼女が歩いてきた時に、思い切って声をかけた。
「いつも目が合うね!名前なんて言うの?どこの学科?」と聞くと、空間演出デザイン科の一年先輩だと言うことがわかった。「奥田といます、悪いけれどわたしもう彼氏がいるの」と言われ、あっけなく儚い恋は終わった。
また、これは、恋ではないが、一年先に現役で東京造形に受かって、小平のアパートに住んでいた女の子、山下さんとよく遊んだ。東京での再会は、僕が学校からアパートに帰ってくると、山下さんが扉の前に立っていて、ビールを買って待っていてくれた。その後、よくお互いのアパートを行き来し、夏には、小平市営の室内プールに一緒に出かけたり、自分のアパートに呼んだりして、たわいのない話をした。彼女とは、一瞬、唇が触れているだけのキスをした記憶があるが、大学を出た後、彼女はイタリアに居を移し、あっちの彼氏と結婚してしまった。また、僕は大学三年の時にマクロビにはまるのだが、そのとき付き合ったのが福智さんであった。福智さんとの付き合いは、マクロビの項で詳しく書くことにする。
オーストラリア人女性、ドミニカとの出会い
大学生活も2年目くらいだっただろうか?弟がそのころ、オーストラリアに留学していて、ホストファミリーの方の娘さんが東京に留学していて、僕のところを訪ねたいという連絡を受けた。
連絡を受けてしばらくして、ドミニカと名のる、流ちょうな日本語をしゃべる外国人女性から電話があった。どうも、そのホストファミリーの娘さんのようで、僕のアパートに遊びに来たいという。特に断る理由もなく、訪問の知らせを受け取った。数日後、アパートのドアがノックされ、開けると、片手にキューピー人形をもって、裸足の白人女性が立っていた。(この人がドミニカか?)、すこし驚いたが、部屋まで通した。なんでも、彼女は、ヒッピーで、はだしの方が歩きやすい、またキューピー人形は、道に落ちていて、かわいそうだから拾ってきて僕にくれるという。
彼女は、ハイスクールが日本で、日本語を覚え、習字もたしなむとのこと。日本語も、きれいな敬語を語り、決して怪しい人物ではないと察した。
そして、この変な外人との交流がスタートした。
彼女と親しくなってしばらくしてから、今度は、東京のどこら辺りかは忘れてしまったが、ドミニカの住む留学生会館を訪ねた。外国人数人とのパーティーで、ドミニカはベジタリアンだったように記憶している。さすが、西洋の人で、パーティーも照明の傘を上向きにして、間接光で、雰囲気を盛り上げたのが印象的だった。彼女が自分のアパートに遊びに来た時、ラジカセら、ポリスの曲が流れ、僕は歌詞の意味が分からなく、なにを歌っているのか?と聞くと、「これは、マザコンの男の歌ね」と教えてくれた。また、ぼくがローリングストーンズのアルバムを録音したカセットテープを見て、『これは、「GOAST HEAD SOUP」ではなく「GOATS HEAD SOUPね」』と指摘されてしまったのを覚えている。しばらくして、ドミニカは、下北沢のアパートに引っ越しして、彼女の日本人のルームメイトとも親しくなった。ドミニカとの交流はその後しばらく続いた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?