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画家Kの自伝 第二章

マクロビオティック


森下医学との出会い
今では、オシャレな若者に人気のある「マクロビオティック」、通称「マクロビ」。しかし、その根をたどると決しておしゃれでは済まされない深いものがあることを学生時代体験した。

 僕と、マクロビの出会いは、かねてからの体の不調を、何とか克服したいと思って、父の書斎で見つけた「食で病気を治す方法」という、自然医学界の権威、森下敬一さんの著書に触れたことから端を発する。森下敬一さんは、「がん」は、血液の汚れから起きるもので、血液の状態、その元の「食」を改善すれば、時間はかかるが、決して不治の病ではない!という医学思想をお持ちの方で、先ごろ九十代で亡くなられたと聞いた。森下博士は、血液は骨髄でできるのではなく、腸でできるものであるという「腸造血説」を唱え、長年研究を重ねられた。だから、食生活を改善すれば、自然と血液の状態も改善され、がんをはじめ、様々な慢性病が根本から治るはずである、と主張された。

 病気ノイローゼ
自分は、やはり親元を離れ、学生生活の最初の2年間、あまりに食生活が乱れ、このような医学に頼らなければならない結果に至ったのだが。

毎日のように、コンビニの甘いお菓子や、学食の売店のチョコレート菓子など、貪るように食べていた。また、最初の二年間は、ほとんど外食中心で、揚げ物とかの多い食生活だった。そういった食生活が祟ってか、大学三年目に、体の不調が目立ち始め、精神的にも、病気ノイローゼに陥り、身体に少しでも異常があると「もしかしたら俺、がんかな?」などという妄想に追い詰められていった。

街を歩くと、目に入るのは、病院やクリニックの看板で、それがなんだか怖くて怖くて仕方なく思えてしまったのである。

肺の神経痛も、「肺がんかな?」などと、必要以上に恐れ、近くの総合病院でレントゲンを撮ってもらったり、血液検査を受けたり。それでも医者の診断が信用できず、医者のはしごをしたり、いよいよノイローゼが精神病手前まで進んでいった。

 自然食
このような病気ノイローゼではまり込んでいったのが「自然食」である。当時、森下さんの本を何冊も読み、近くの図書館に行くと、なぜか小平の図書館には自然食の書籍が多く、一番気になった本が「がん、ある完全治癒の記録」という、アメリカの医師が、がんを患い、マクロビに出会い、迷い迷いがんを治癒していく話である。医師であるので、患者として、また自分の病気を客観的に観る医師としての立場をとっており、現代医学とは、全く違うがんという病気の解釈、それに戸惑いながら、マクロビをアメリカで広めた久司道夫さんの指導のもと、消えるはずのない自分の腫瘍が、肉、砂糖を断ち、玄米とか、みそ汁、野菜、海藻に食生活を切り替えることによって、徐々に消えていく過程が書いてあった。

このころ、自分は、上水桜荘から、一駅北の、西武多摩湖線青梅街道駅近くの、「小滝荘」というアパートに引っ越していた。

また、森下さんや、マクロビの影響で、食生活は、ムサビ近くの自然食品店などから食材を購入して、玄米を中心としたベジタリアンへと変わっていった。

中央線沿線は、当時から自然食レストランや、八百屋さんが多く、国分寺、国立、荻久保と点在していた。

また、森下医学に大きな影響を受け、何とか健康を取り戻したいと思っていたのだが、何時かしら、マクロビの思想に近づいて行った。

 母の心配
では、こういった自然食にはまっていく自分を、故郷名古屋の母はどう見ていたのだろう?

自然食、いわゆる玄米菜食というのは、始めると、たいていの人が非常に痩せる。自然食の指導者は、そのことを、玄米菜食に切り替えることによって、それまで身体に溜まっていた薬品、抗生物質漬けの肉類、砂糖などの毒素が老廃物として身体から出ていく、だから痩せるのであるという。それは、森下医学も、マクロビも共通するところである。

ただ、そのような話を息子から聞いた母は、帰京するごとに痩せていく息子をみて、心配でたまらなくなっていったのである。大した病気でもないのに、どうしてそこまで痩せる必要があるのか、という思いだったのだろう。また、当時には珍しい、自然食を取り入れた品川(だったかな?)にあった総合病院、食養内科に母と行き、自然食に理解のある内科医に見てもらったが、マクロビの弊害、行き過ぎた食事制限には反対の立場を持っていた先生が、母に内緒で、「息子さん、長くかかりますよ」といわれたのを後から聞いた。また、「がん、ある完全治癒の記録」の本の冒頭にも、「警告・急激な食生活の変化は、有害な副作用をもたらします。」とあったのを思い出す。

 森下医学とマクロビオティック、
では、森下医学とマクロビは、どういった関係にあるのだろう?

ぼくは、森下医学の本を何冊も読み、自然食の世界に入ったのだが、ある時、桜沢如一というマクロビの創始者の本と出合って驚いた。書いてあることや食事の仕方が、森下医学と酷似しているのである。

実は、森下医学も、この桜沢さんの食思想をベースとして、医学的に展開させたのであることに気が付いた。

病気恐怖ノイローゼから、ついに自然食創始者まで行きついた瞬間であった。

そして、調べていくと、マクロビオティックの協会が東北沢にあることを知った。僕は、次第に森下医学から離れ、桜沢さんの食哲学へ惹かれるようになっていった。

 友人たちの反応
では、このような自然食にはまっていく僕を、ムサビをはじめとする友人たちはどう見ていたのだろうか?ちょうど、本格的にマクロビにはまったのは、大学三年~四年の春休みの時期で、僕は、ムサビの友とはほとんど交流しなかった。また、このころから、ムサビの友達グループとは距離が出来、僕は孤立していった。予備校時代からの友、宮寺は、心配しながら遠くから僕を見守ってくれていた。そのころ彼が住んでいた国立のアパートにお邪魔して風呂を借りたとき、お釈迦様の修行期のように痩せた僕を見て驚いていた。そのころ付き合っていたムサビ短大出で、デザイン会社に勤めていた福智さんや、今はお寺の住職をしている大下君が数少ない友達だった。福智さんは、マクロビにのめりこんでいく僕と、しっかり付き合ってくれて、国立の自然食レストランとかでデートしたりした。ガリガリの僕を、ディズニーランドに誘ってくれたのも福智さんだった。

                                                                                                              


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