常森 裕介

常森 裕介

最近の記事

批評における文脈形成と「私」(なぜみんなで批評をやるのか)-ことばの学校演習科山本浩貴回を終えて

山本先生回3回目を終え、最後の質疑応答で、批評の型を突破するのに、「私」性は有効かと質問し、またそれに続く質疑で他の受講者から、最後の一文の重要性が指摘された。 その後、やはり批評はみんなでやる意味があるのではないか(同人誌を作るとか)と提案してみた。その実現可能性はともかく、みんなで批評をやる意味はどこにあるのか、以下簡単に説明する。 1 「私」性の価値  豊崎・倉本・山本回を終えて、一つの作品を評する際に、視点のオリジナリティを維持することは極めて難しいことを再認識

    • アカデミー賞直前予想2024

      ◆作品賞 アメリカン・フィクション 落下の解剖学 バービー ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン マエストロ:その音楽と愛と オッペンハイマー 常 パスト ライブス/再会 哀れなるものたち 関心領域 ◆監督賞 ジョナサン・グレイザー(関心領域) ヨルゴス・ランティモス(哀れなるものたち) クリストファー・ノーラン(オッペンハイマー)常 マーティン・スコセッシ(キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン) ジュス

      • 書評 沼田真佑『影裏』-ことばの学校批評クラス豊崎先生回 試作

        小説が目に見えないものを描けるとすれば、小説は、目の前から頑として消えない悲劇に対して、どのような力を持ち得るのだろうか。第157回芥川賞受賞作である本作は、そのような問いを読む者に突きつける。 本作の語り手である今野は、同僚の日浅と意気投合し、釣りを楽しみ、酒を酌み交わす仲となる。しかし、日浅はある日何も言わぬまま会社を去ってしまう。やがて東日本大震災が起こり、今野は、同僚から震災により日浅が死んだかもしれないとの情報を得る。今野は、日浅の足跡を辿る中で、日浅が周囲の人々

        • 書評とのりたま-ことばの学校批評クラス豊崎先生回雑感

          SNSのXで、子どもがご飯にのりたまを振りかけすぎるので、その原因を考えてみると、パッケージどおり山盛りにしようとしているのではないか、という推測を披露する投稿を見た。 (遡っても上記ポストが見つからないので、記憶違いかもしれないが) とは言え、パッケージどおり山盛りにすると、美味しくない(しょっぱい等)と感じる人も少なくないだろう。ただ言うまでもなく、ちょろちょろっと振りかけただけの写真がパッケージに採用されることもない。 何より、パッケージどおり山盛りにかけて、(パッ

        批評における文脈形成と「私」(なぜみんなで批評をやるのか)-ことばの学校演習科山本浩貴回を終えて

          ことばの学校 第5回-なぜ学校で読みにくい小説を読むのか

          更新が滞ってしまったが、後から視聴クラス(?)なので、リアクションペーパーもマイペースで。 第5回は阿部公彦氏を講師に迎えて、宮沢賢治や太宰、漱石など著名な文学者の作品、それも「走れメロス」や「こころ」など教科書に掲載されている作品を題材に、表現をめぐる考察がなされた。特に「~メロス」における身体性や、「こころ」における二人であることの意味など興味深い内容が多々あった。 1 読みづらい「舞姫」 レクチャーに聞き入る中で、高校時代に教科書でふれた文学作品を思い出し、その中

          ことばの学校 第5回-なぜ学校で読みにくい小説を読むのか

          ことばの学校 第4回 文体と出来事 宮部みゆき『ぼんぼん彩句』

          第4回の講師は小説家の宮内悠介氏であり、特に印象的だったのが文体である。宮内氏は、かつて〇〇の文体でミステリーを書いてみようと試みたことや、宮内氏自身が作品ごとに文体を変えることができる(できてしまう)こと、それゆえに脱線も含めた独自性を備えた文体に憧れることが語られた。 たまたま最近読んだ宮部みゆき『ぼんぼん彩句』は、一つの俳句に一つの短編という形で、俳句と結びついた作品が収められた作品集である。SFやミステリーも含まれているものの、ジャンルものではない家族をめぐる小説が

          ことばの学校 第4回 文体と出来事 宮部みゆき『ぼんぼん彩句』

          ことばの学校 第3回-有名人の透明な対談 星野源×オードリー若林『LIGHT HOUSE』

          第3回は水上文氏をゲスト講師に迎えての講義であったが、印象的なのは、批評の書き手が透明ではいられないという話だった(佐々木先生の、社会反映論を経て、ある時代に書き手が透明であることを求められることになった旨の応答も興味深かった)。 第3回の講義動画に少し遅れて配信されたのが、星野源とオードリー若林の対談番組「LIGHT HOUSE」(Netflix)である。佐久間宣行がプロデューサーを務め、全6回の対談各々に星野源がオリジナルの曲を作るという話題の番組である。 対談の内容

          ことばの学校 第3回-有名人の透明な対談 星野源×オードリー若林『LIGHT HOUSE』

          ことばの学校 第2回 ミステリにおける長さと下品さ

          第2回は、具体的な書き方に関する内容が中心であった。書き始め、書き進み、書き終わるまでの心構えや技術などである。その中で、ミステリ作品についての言及が多く、講義を聴きながら、自然とミステリについてあれこれと考えていた。 私はミステリを読むのが好きで、創作もミステリが中心である(ゲンロンSF創作講座に参加し、同人誌Sci-Fireに参加していることもあり、SFを書く機会も増えてきたが)。佐々木先生のミステリ・アウトサイダーズの再開を待ち望む一人でもある。 さて、講義の中で、

          ことばの学校 第2回 ミステリにおける長さと下品さ

          ことばの学校 第1回 感想-あらすじと感想

          ことばの学校が始まった。 せっかく正規受講しているので、 リアルタイムで視聴し、質疑応答に参加したいところではあるが、 仕事や家庭の事情で、ほぼそのような機会は得られないだろう。 そこで、アーカイブ視聴したうえで、 リアクションペーパーのようなものを、毎回ここに、勝手に、 書いていこうと考えている。 内容は毎回の講義の感想なのだが、 講義をきいて、自分が想起したこと、作品、言葉を中心において、 改めて講義を聞いて自分が何を考えたのか、確認してみたい。 自身を語るか、他者

          ことばの学校 第1回 感想-あらすじと感想

          アカデミー賞予想

          いよいよ明日に迫ったアカデミー賞全部門を、 常森×武重で予想します! 🟠作品賞 ファーザー Judas and the Black Messiah Mank マンク ミナリ  ノマドランド 武重 プロミシング・ヤング・ウーマン サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ シカゴ7裁判 常 🟠監督賞 リー・アイザック・チョン(ミナリ) エメラルド・フェネル(プロミシング・ヤング・ウーマン) デヴィッド・フィンチャー(Mank マンク)武重 トマス・ヴィンターベア(アナザー

          アカデミー賞予想

          ポリコレとマスターベーション -『ハーフ・オブ・イット』『ブックスマート』『ロング・ショット』

           2020年に観た映画のベスト5を挙げろと言われたら、この3作品はいずれも入らない。だが、2020年を代表する映画を挙げろと言われたら、この3作品を外すわけにはいかない。「ポリコレ」という略称には、揶揄する響きも含まれるが、この3作は、良し悪しはともかく、作品中にポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)に関する配慮を行き渡らせた作品だと言える。そのことが、作品としての価値を高め、現実世界に影響を与えるとともに、作品そのものを制約している面もある。    「ハーフ~」も「ブック

          ポリコレとマスターベーション -『ハーフ・オブ・イット』『ブックスマート』『ロング・ショット』

          『はりぼて』☆☆☆☆-省略された場面に何をみるか

           本作は、日本の、一地方自治体の、個々にみれば決して多額とはいえない公金の不正を追うことで、日本の地方議会、あるいは立法と行政が抱える問題を分かりやすく示した。音楽の使い方に表れているように、滑稽さを演出に加えることで、観客に、本作が扱う問題を身近に感じさせるだけでなく、笑うしかない、そんな問題の根深さを突きつけることに成功している。それでもなお、ラストにわずかながら疑問が残る(以下、ネタバレあり)。  本作の成功の要因は、不正に手を染めた市議会議員を、物語のキャラクターとし

          『はりぼて』☆☆☆☆-省略された場面に何をみるか

          コロナ禍のクドカン-『熊沢パンキース03』と死んだ日常-

           宮藤官九郎作・演出『熊沢パンキース03』を、映像(WOWOW)で視聴し、これこそ今観られるべき作品だと感じた。「接客を伴う飲食店」そのものの店を舞台に、謎の感染症が蔓延する中、登場人物たちは野球や身内ネタで盛り上がる。執筆当時、当然のことながらコロナ禍のことなど想像する余地もないであろうし、「熊沢~」の架空の感染症は、エボラやエイズなどを念頭に置いたもののように思える。それでもなお、本作で描かれる死んだ者たちは、コロナ禍の我々のように見える。    宮藤は、岸田賞を獲った

          コロナ禍のクドカン-『熊沢パンキース03』と死んだ日常-

          『はちどり』☆☆-少女への過剰な期待

           公開前から前評判が高く、ミニシアター系の作品であるにも関わらず、上映の範囲を拡大しているようである。確かに、舞台となった当時の韓国社会の様々な矛盾(特に女性に対する抑圧)を、丁寧に描いており、解釈や読み解きのためのフックが多い作品である。主人公の感情も繊細に描かれており、男女問わず、思春期の一場面として、共感できる部分も多いのではないだろうか。だが、あまりにも、主人公の少女に多くのものを託し過ぎたように思う。それがテーマ過多、エピソードの盛り過ぎにつながり、前半で紡いだはず

          『はちどり』☆☆-少女への過剰な期待

          『劇場』☆☆☆-ヒロインを超えた松岡茉優

           本作の成否は、松岡茉優演じるヒロインにかかっていた。本作(おそらく原作も)の戦略は、一見すると、主人公を慰撫する、物分かりの良い母性に溢れたヒロイン像を設定し、主人公の未熟さや身勝手さ、卑小さを強調するというものである(後半は、彼女が病んだ状態になるが、これもまた母性を強調する前半と表裏一体である)。また、本作は主人公の視点で語られるため、主人公にとってあまりにも都合のよい(甘いと主人公自身も認めるところではあるが)彼女の人物造形は、実際の彼女とは異なる可能性もある。いずれ

          『劇場』☆☆☆-ヒロインを超えた松岡茉優

          シアターコクーンの自由と不自由 -『プレイタイム』と松尾スズキ版『劇場の灯を消すな!』

           劇場に観客を入れて芝居を見せることが難しくなっている今、演劇人たちは、様々な方法で、新たなパフォーマンスのあり方を模索している。リモート演劇のように、オンラインツールの制約を利用して、新たな芝居を作る試みは、その一つだろう。  多様な試みが存在する中、あえてそれらに共通する点を挙げるとすれば、劇場・対面・リアルタイムで芝居をできないことが、不自由ではない、と強調していることではないだろうか。  映像配信でも伝わる、映像だからこそできることがある、新しい演劇の形が生まれる

          シアターコクーンの自由と不自由 -『プレイタイム』と松尾スズキ版『劇場の灯を消すな!』