ことばの学校 第5回-なぜ学校で読みにくい小説を読むのか

更新が滞ってしまったが、後から視聴クラス(?)なので、リアクションペーパーもマイペースで。

第5回は阿部公彦氏を講師に迎えて、宮沢賢治や太宰、漱石など著名な文学者の作品、それも「走れメロス」や「こころ」など教科書に掲載されている作品を題材に、表現をめぐる考察がなされた。特に「~メロス」における身体性や、「こころ」における二人であることの意味など興味深い内容が多々あった。

1 読みづらい「舞姫」

レクチャーに聞き入る中で、高校時代に教科書でふれた文学作品を思い出し、その中でも一つの作品について考えをめぐらせていた。それは森鴎外の「舞姫」である。

「舞姫」の内容もさることながら、擬古文で書かれた描写をぱらぱらとめくるうちに、このような文章を学校で読む意味とは何であるのかについて考えた。

著名な作家の代表作であるから、各時代の作品を広く学ぶ必要があるから、作品(文章)が素晴らしいから、全文を読むのに長さがちょうどいいから、など理由は様々考えられるが、ここで問題にしたいのは、擬古文で書かれた小説を読む意味である。

これについても、既に古文について基礎的な知識や読み方を修得しているからこそ読めるから、というのも理由の一つになりうるが、そういうことでもなくて、広く小説を読むうえで、わざわざ文章が読みづらい小説を読む意味と言い換えてもよい。

ことばの学校でも、何度か、今の小説は読みやすい(読みづらい、わざと読みづらく書かれた小説が少ない)ことが指摘されている。

2 読みづらくないと「読む」ことができない

逆に、物語をきちんと理解し味わう、あるいは内容からいろいろ自分の考えを広げることを重視し、読みやすい(そしてテーマはきちんとある)小説を教科書にたくさん載せたらどうか。実際に、比較的新しい小説は国語の教科書にも掲載されている。

上記のような小説であれば、生徒はスムーズに読むことができるだろう。しかし、そこでは一文一文読むことをしないかもしれない。と言うより、一文一文読んでいるけれども、一文一文読んでいると意識しないかもしれない。なぜか。それは一文一文読まなくてよいことこそ、読みやすさだからである。

よほど小説を読み慣れた人でない限り「舞姫」をすらすらと読むことはできない。逆に、よほど小説の構造に関心のある人でない限り、エンタメ作品を含むリーダビリティの高い小説を一文一文を意識して読むことはしない。

そうであれば、「文章を味わう」ことを学ばせるためには、読みやすい作品を与えて一文一文味わって読めと強制するより、一文一文読まなければならないような文章を読ませて強制的に「文章を味わう」ことをさせるのが手っ取り早い。

ただし、ポイントは、読みづらい文章で書かれている内容が理解可能なものだという点にある。「舞姫」であれば登場人物の心理やストーリーはある程度理解可能な範疇にある(これは古文や漢文も同じであろう)。

3 「舞姫」は面白い

舞姫を一文一文読むと、主人公が、凝った表現を使って、自分の思考や記憶を(主として自分の行為を正当化するために)再構築しようとする様を間近でみることができる。彼は、街の描写、恋人の様子など、視点や順番を工夫して、言い換えれば、表現やことばの力を駆使して「事実」を組み上げようとしている。叙述トリックとまでは言わずとも、船の上から始まる真偽が宙づりにされた記憶の旅はスリリングかつユーモラスである。

「舞姫」を「一文一文」読んだ生徒が、表現を楽しめるかといえば、なかなか難しいだろう。しかし、少なくとも擬古文を一文一文辿って読む「舞姫」は漫画やあらすじだけの舞姫とは別物である。

最後に、表現も難解でかつ読み取られる内容も難解な小説や、表現は平易だけれど読み取られる内容は難解な小説と、人はどこで出会うのか。その答え(のなさ)が今読みやすい小説が増えているということなのかもしれない。



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