コロナ禍のクドカン-『熊沢パンキース03』と死んだ日常-

 宮藤官九郎作・演出『熊沢パンキース03』を、映像(WOWOW)で視聴し、これこそ今観られるべき作品だと感じた。「接客を伴う飲食店」そのものの店を舞台に、謎の感染症が蔓延する中、登場人物たちは野球や身内ネタで盛り上がる。執筆当時、当然のことながらコロナ禍のことなど想像する余地もないであろうし、「熊沢~」の架空の感染症は、エボラやエイズなどを念頭に置いたもののように思える。それでもなお、本作で描かれる死んだ者たちは、コロナ禍の我々のように見える。
 

 宮藤は、岸田賞を獲った『鈍獣』、歌舞伎の『大江戸りびんぐでっど』あるいは映画『TOO YOUNG TO DIE!』のように、生と死の狭間を行き来する(ように見える)者を描いてきた。それらの作品で描かれる生と死の関係は一様ではないが、『鈍獣』や「熊沢~」では特に死んだように生きる者にスポットライトを当てた。
 

 死んだように生きるとは具体的には、どんな状態か。それは、選択という行為を経ずに、同じ生や日常を繰り返し、また、繰り返すことを望む状態である。「熊沢~」でいえば、野球とその後の馴染みの店での宴会がそれに当たる。感染症による死という、避けがたい大きな変化が迫っているにも関わらず、彼らは必死にいつもと同じ生を繰り返そうとする。唯一外部の人間であった田辺誠一でさえ、彼らの繰り返される生に取り込もうとする。等速直線運動を続けることと、静止していることが、同じ法則の下に成り立っているように、彼らが日常を繰り返すことは、何もしていない(死)のと同じなのである。スナックや喫茶店といった閉鎖的な空間を、宮藤は好んで描いてきた。『あまちゃん』のようにユートピアとして描かれる場合もあれば、陰惨な事件の舞台となることもある。宮藤が描く内輪の空間は、外部から隔絶されていると同時に、外部の世界の縮図となっている。
 

 コロナ禍において、感染拡大を防ぐことを重視する者と、経済活動再開を重視する者が対立しているが、いずれも、生きること(感染により死なない、不況により死なない)を強く望んでいる。しかし、コロナ禍の前から、死んでいるように生きている人間は一定数存在している。また、以前のような日常を取り戻そうとする人と、新しい日常への適応を強調する人がいる。いずれも、どのような日常を送るか選択することを前提としている。だが、どのような日常や生を送るのか、選択するのではなく、まさに慣性の下で生きている者もいる。
 

 感染の可能性が高い、いつもの店に行ってしまう人を、心のどこかで非難できないのは、誰もが、そのような欲求を抱えているからである。コロナ禍で死に直面したとき、最も息苦しかったのは、生きることを強く望むのが当然だと言われること、そして、生きるための生き方や生活様式を、その都度選択しなければならないことではないだろうか(例えば、ある場面でマスクを着用するかどうか)。そこでは、何も考えずに、惰性で、いつものように、いつもの店に立ち寄るという思考や行動が否定される。その時初めて、自分たちもまた、死んだように生きる日常を欲していることに気づくのである。血を吐きながら、同じ店に集まる「熊沢~」の面々を見たとき、観客は、愚かな彼らを、羨望の眼差しで見つめるのだ。

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