ことばの学校 第1回 感想-あらすじと感想

ことばの学校が始まった。
せっかく正規受講しているので、
リアルタイムで視聴し、質疑応答に参加したいところではあるが、
仕事や家庭の事情で、ほぼそのような機会は得られないだろう。

そこで、アーカイブ視聴したうえで、
リアクションペーパーのようなものを、毎回ここに、勝手に、
書いていこうと考えている。

内容は毎回の講義の感想なのだが、
講義をきいて、自分が想起したこと、作品、言葉を中心において、
改めて講義を聞いて自分が何を考えたのか、確認してみたい。

自身を語るか、他者を語るか、両者の関係はというのが今回のテーマであった。聴きながら考えていたのが読書感想文のことである。

夏休みといえば読書感想文であり、現在でも連綿と続く伝統的な夏休みの宿題である。そのため、SNSでは定期的に読書感想文不要論について議論が交わされる。

読書感想文に対する批判はいくつかあるが、それらは読書感想文の特徴そのものを反映している。すなわち、強制的に本を読ませ、考えたことを書かせて、その内容を審査するということへの批判である。

とってつけたような「感想」を書かせるくらいなら要約させる方が、よほどよいトレーニングになるといった意見もあるようだ。確かに要約は汎用性の高い技術であり、必要な訓練だといえる。要約の重要性は認めたうえで「感想」を書くことに意味はないのだろうか。

講義の中では、誰しも自分自身という語る対象をもっている(と考えることができる)と説明されていた。「私」が経験したこと、考えてきたことなどがここでいう「自分自身」に当たる。

1 読書感想文を書く

読書感想文を書くことで現れる自分自身とはどのようなものか。一つは、本を読んでいる自分である。漢字を調べたり(読めないまま放置したり)、ページをめくったり(読み飛ばしたり)する自分である。他人の言葉に物理的に向き合う自分と言い換えてもよい。次に、他人の言葉について考える自分である。あらすじをまとめ、「感想」をひねり出し、マス目を埋める自分である。ここで物理的な作業とともに、自分が考えていることが徐々に明確になり、考える自分を認識することになる。最後に自分の書いた「感想」を読む自分である。推敲も含まれるが、「~が面白かった」といったことしか書かれていない「感想」文をまじまじと見つめる機会でもある。

読書感想文は難しさや苦しさが強調されがちであるが、本全体ではなく一部(印象に残った部分)に対するコメントでよい、本の内容に対し内在的な分析ではなく、外在的な分析(自分も似たような経験を~)でもよい、という点で要約よりハードルは低い。そのため、確かに完成品の質は低くなりがちである。

以上を併せて考えると、読書感想文は、特に他人の言葉を読む身体(思考)ができていない小中学生が、物理的に本を読むことによって、自分自身を認識する過程だといえる。他者の言葉に自分がどう反応するのか(没頭するのか、飽きるのか等々)、他者の言葉をどのように記憶して再現するのか(あらすじのまとめ)を、同じく物理的に体験するためにあるといえる。そのためには対象となる他者の言葉に対し距離をもって接する要約ではなく、「感想」(感想を書かねばと考えながら読む)でなければならないのである。

だから読書感想文を、自分なりの読み方、書き方が確立されてからも続けるのは妥当とは言えず、書く対象たる本と自分自身が未分化である時期だからこそ意味がある。だからといって、課題図書に挙げられる、読み手に近い年齢の少年少女が主人公の物語である必要はなく、まとまった意味をもつ(読むことを必要とする)文章であれば何でもよい。

一般的に、他人の文章に対する批評は、当該対象に内在的でかつ全体を把握したものであることが望ましいといえるかもしれない。他方で、他人の文章を内在的かつ総合的に把握することは容易ではなく、他人の文章を読み批評を書く自分自身がぐらついていては上記作業を完遂できない。

読書感想文は、そのような作業を遂行する者からみれば、いい加減極まりないものであるが、完成した「感想」からは読み取れない、「感想」に至るプロセスは、物理的に他者の言葉と自分自身に向き合う得難い時間ともいえる。

2 読書感想文を読む

講義では「ハンチバック」を中心に、小説における当事者性について説明され、佐々木先生の見方では、同作のポイントは、重度障害者として作者が主人公と重なる部分以上に、書く主体として両者が重なる部分ではないかということであった。
(ちなみに「ハンチバック」は最近読んだのでよく覚えていたが、「存在の耐えられない軽さ」の方は昔読書会に参加し何か月もかけて熱心に読んだのに、あらすじすら覚えていなかった)

さて、読書感想文を読むのは教師である。教師は生徒との間に権力関係があるだけでなく、生徒がどんな人物かよく知っている(と思っている)。そのため、読書感想文を読むとき、教師は生徒の姿を(場合によっては書いている時の姿(面倒くさそうに書いているのだろう、とか)をありありと思い浮かべながら読む。

小説等のフィクションとは異なるエッセイであることを差し引いても、読書感想文において書き手の身体性が強くイメージされる程度はかなりのものである。また「感想」であるから、あるテーマについて調査し書かれたレポートを読むよりも生々しい。読書感想文に対する拒否感は、書くのが面倒であるのと同時に、感想を読まれるのが嫌だという理由も大きいのだろう。

しかし、教師は本当に書かれた感想と、書いた生徒の姿を重ねて読むことができているのだろうか。例えば(言うまでもなくルール違反であるが)あまりにも上手に書けている場合、親が書いたのではないか、と疑うこともあるだろう。そうすると、急に自分がよく知っている生徒ではなく、一度くらいしか会ったことのない親の姿が浮かび、教師自身がイメージした書き手の身体性は急に不安定なものになる。

上記のような不安の前提として、教師が暗黙のうちに前提としている小中学生の文体というものがあるかもしれない(質疑応答でテキストにおける身体性とは文体である旨のやり取りもあった)。だから、いかにも小中学生らしい、あるいは普段教室で見せているイメージ(やんちゃ、とか)に近い書き方だと支障なく読める一方、達者な文章だと、書き手をイメージすることができなくなり、親による代筆を疑う(書き手に責任転嫁する)ことになる。

3 読書感想文の書き手と読み手

冷房の効いた部屋でページをぱらぱらめくりながら、半分くらい読んだからもういいだろう、とか、前に読んだ本を適当に読み返して書こうと思ったけど全然思い出せなくて仕方なく時間をかけて読み直している、とか、とにかく読書感想文の書き手(の身体)はじたばたしている。
これに対して読み手の教師は、また誰々はこういう文章を書いているなあと嘆きながら、じたばたする生徒をイメージする。
両者の関係は、書き手=イメージ(評価)される、読み手=イメージ(評価)する、といったある意味健全かつ固定的な(権力)関係である。

しかし、ふと生徒が小説のある部分に反応し(あるいはそれは新しく読むのが面倒で以前読んだものを再読する過程で生じるかもしれない)、長い「感想」を書き、漢字の誤りなど含みつつ、普段の自分とは違う(ことを意識することもないまま)文章を書き、
教師が、本当にこの感想文は「本人」が書いたのかと疑う時、読書感想文において、書き手と読み手の間に流動的で「健全」な関係が生まれるのかもしれない。



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